自然科学

TVは時に科学者を疑似科学者にしてしまう?!

TASC会議室にて、「科学と疑似科学どっちがホントっぽい? ……科学的正しさの機能不全」というテーマで鼎談を開催。出席者は、東京大学大学院教育学研究科教授・金森修さん、名古屋大学大学院情報科学研究科教授・戸田山和久さん、帝京大学経済学部助教授・小島寛之さん。
疑似科学が蔓延している現状を確認したうえで、何がそういう状況を生み出しているのか、その問題点は何か、さらには、何が今必要なのか、自由に議論していただいた。
科学者側にその責任の一端があるのならば、科学者も反省し、市民への啓蒙活動も大事だとするしごく正当な意見が出たが、それは科学の問題というよりは、社会の方にこそ問題があり、必要なのは合理的な判断ができるシステムづくりという意見も出た。また、疑似科学を鵜呑みにしてしまうような頭をつくってしまう現在の教育にこそ問題があるという批判も出た。
個人的に興味をもったのは次のような発言。科学者は、科学はここまでしかわからないということをよく知っている。わかりたいと強く思っていても黒白がつけられないのが科学者だ。ところが、何かわからないことがあるとメディアは、科学者を引っ張り出してきて結論を迫る。メディアが科学者に期待するのは、「まだわからない」という消極的なコメントではなく、「専門家からみてそれは絶対に黒(白)だ」という断定だ。科学というお墨付きを得た上で、さらにサプライズが期待される。そのため科学者は、時に疑似科学者の役を演じさせられてしまう。疑似科学の蔓延には、テレビの影響があるのではないか。ほかにも、背景には科学政策と予算配分のゆがみが生み出した現象、官僚の科学リテラシーが低すぎるのが原因という辛辣な批判も。じつに有意義な鼎談となった。来年発行の『TASC monthly』に掲載を予定している。乞うご期待。

有機栽培の植物工場が……

朝の犬の散歩。野川の対岸で文理シナジー学会会長の高辻正基先生にばったり会った。東海大学退官後悠々じてきの生活を送っているとか。今日は朝の散歩らしい。あまりに暇なので、植物工場の経営を始めましたよ、って、いかにも先生らしいことをおっしゃる。従来の植物工場に有機栽培を合体させることに成功。これで、今までネックだった「美味しさ」もクリア、いよいよ本格的な植物工場の時代がきそうだよ、とうれしそう。僕は、中心市街地の中心部に植物工場をつくつてほしいと思っている。空き店舗を利用した植物工場付八百屋さん。ほんとの産直。もっとも今はまだコストがかかりすぎる。需要が増えればそれも夢でなくなる日も近い。なにせ、安全・安心の理想のような野菜ができるのが植物工場なのだから。高辻先生もぜひがんばってくださいね。

ちまたにはびこる「にせ科学』への軽い一撃

『 city&life』82号の「〈素顔のまま〉でまちづくり」の取材に関して社内でミーティング。実際に現場に行って肌で感じることは大事だけれど、10月は『談』の編集の追い込みで物理的に非常に厳しい。一応、山形県金山、新潟県村上、秋田県角館といくつか絞って行こうと思っているが、本当にいけるのか心配。
朝日新聞の夕刊に大阪大学の菊池誠教授が『科学批評室」で「にせ科学」についての文章を寄せている。これは面白い。「マイナスイオン」、『水からの伝言」、『波動」、『フリーエネルギー」「血液型性格判断」とか、今、ちまたでは「にせ科学』流行だ。こうした状況への軽いジャブ。こういうのはどんどんやってほしい。「『TASC monthly』で予定している座談会の資料になりそう。

科学と疑似科学、ホントらしいのはどっち?

エスタシオン・カフェでTASCの新留さんと一緒に帝京大学経済学部助教授・小島寛之さんと打ち合わせ。『TASC Monthly』掲載予定の座談会について。「科学と疑似科学どっちがホントっぽい? …科学的正しさの機能不全」というテーマでやろうと思っている。人選を含めてご相談する。ハードなテーマだけど、楽しくざっくばらんに語り合っていただきたい。うまくいくときっと面白いものになると思う。ぼく自身じつは半分はオカルティストなので、このテーマけっこう切実だったりする。

今言ったことを反古にしても、それはゆらぎがそうさせているから。

談』no.77に掲載を予定している東京大学薬学系研究科講師・池谷裕二さんをインタビュー。池谷さんは、35才の若さで本年度日本神経科学学会奨励賞と日本薬理学会奨励賞をダブル受賞した若手科学者のホープだ。ご専門は脳の可塑性の研究。今回は、「時間(とき)は脳の中でどう刻まれているのか……生命、複雑性、記憶」というテーマでお話を伺った。
開口一番、「脳は何をやっていると思いますか。じつは脳がやっていることは予測と適応。それだけしかやってないんですよ」とおっしゃった。なぜ予測をするかというと来るべく未来のためであって、それが記憶というものを生んだというのだ。われわれはくちをあんぐり開けて聞き入った。いきなりのサプライズである。続きを読む

暗箱自がシャッターを切る、写真家の消滅した写真

自転車で仙川の「東京アートミュージアム」へ。「二つの山」展 の畠山直哉さんの展覧会の初日。オープニングを記念して畠山直哉さんと翻訳家の管啓次郎さんのアーティスト・トークがあるというので、田井中麻都佳さんと会場で待ち合わせをする。いつも畠山さんの展覧会では不意打ちに似た衝撃を受ける。テーマがなんでありその対象にどうアプローチしたか、あらかじめご本人からうかがっていても、いざ会場で作品と対面すると、決まってガツーンとくる。これはいったいなんなんだ、これまで見たことのないもの? 見たことのない風景? 確かにそういうものもある。しかし、日常見なれたものや風景であっても、なんなんだこれは! と頭をぶん殴られたような衝撃をうけるのである。しかし、それでもマットに沈むようなことはなかったのに、今回の山の写真は違った。軽く100回ぐらい殴られた感じ。ほとんどKO負け状態。アルプスの写真である。スイス・ユングフラウ地方にロケーションして撮り下ろされた山岳写真である。写っているのは山。本物は見ていなくても、絵はがきや印刷物、TVなどで一度は目にしたことのあるありふれたアルプスの風景。しかし、そこに現出していたものは、強度とピュイサンスを孕んだ驚くべき写像であった。
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行為/環境の関係を読み解く画期的事典の登場。

東京大学大学院情報環・教育研究科教授・佐々木正人さんから「動くあかちゃん事典」(DVD2枚組)を贈呈いただきました。植物図鑑や動物図鑑はありますが、あかちゃん(3才までの乳児)の行為を、その姿、発達の様子、あかちゃんの行為が行われる周囲のものや場所を動画で記録し検索できる図鑑というのはおそらく世界初の試みでしょう。のべ150時間にもおよぶ映像記録から、行為と環境の意味が見てとれる様子を抜き出し、約900のキーワードからアプローチできるというもの。たとえば、「移動」を選択すると179件の動画がヒットします。年齢の若い順に移動の発達が示されます。しかも画期的なのは、キーワードや年齢、あかちゃん名(2人のモデル)などをAND検索すると動画がしぼられて、その選択された動画が自前の映像として「連続再生」できることです。見てみたい行為や場面だけをつなげた発達のドキュメンタリーをつくりだせるというわけです。リリースによれば、「私たちは行為とともに、行為を可能にしている環境の意味(アフォーダンス)にも興味をもって抽出しました。たとえば、移動に段差をかけ合わせると、移動が段差という環境とどのように関係しているのか、移動の発達が段差とどのように関連したのかつぶさに観察できます」。
まだ、一部に配布されただけですが、現在出版を検討中とのこと。この面白さを一部のひとだけのものにしておくのはもったいない。ぜひとも早く市販化してほしいものです。アフォーダンスはわからない、とよく耳にします。活字では伝わりにくい「アフォード」するという意味も、「動く」とよくわかります。この事典がきっかけとなって、アフォーダンスや認知心理学の研究がよりいっそう深まることを期待します。

「〈en」〉は〈縁〉なり」は本当だ

東大赤門でOさんと待ち合わせ。教育学部の金森修さんと面会。「en」への寄稿のお願い。バックナンバーの小松美彦さんの記事を見ると笑いながら、「彼と飲むと大変なんだよ」とおっしゃった。小松さんとは古くからのお知り合いで、よく連れ立って飲みにいかれるとは聞いていたが、「大変」(?)だとは知らなかった。もちろん余計な詮索はしませんからご安心を。それにしても金森さんは、小泉義之さんと高校の同窓だったり、僕と同い年だったりと、何かと近しい関係にある。「縁」を感じるので、今度は何か連載でもお願いしてみようかな。

ミクロクリマのエンジニアリング

うちで制作しているあるメーカー系のPR誌のブレスト。「天気」が面白いという話になった。気象と気候は違うのか。気象は大気現象それ自体が対象だが、気候は人間が関与する現象も対象となる。かつてはそうした区分けが必要だったのだろうが、今はむしろ両者の融合が望まれる。気象の総合化が重要なのだろう。僕は、ミクロクリマ(微小気候/葡萄畑)、テロワール(風土)のエンジニアリングの時代なのだと思っている。
そういえば、玉村豊男さんからこんな話を聞いた。
「最近はワインの世界ではこの山じゃなくて、この葉っぱの列のここがミクロクリマだというようになってきてるんですよ。カリフォルニアなんかだとそういうことをコンピュータで全部計測する会社があるんですよね。そこが請け負っていて、お宅の何列目のここら辺が一番湿度が高くなっているからと知らせてくれると、そこだけ消毒する。そうすると全体をしなくて済むので率がいいと。消毒も減るし、コストも減るということで、全部センサを張り巡らして、警告を発する会社があるんですよ。契約料は高いんだけど、でも得をするんだって。それでお宅の何の畑のここら辺が今湿度が急に高くなってるから消毒したほうがいいよとか教えてくれるんですね。本当のミクロクリマですよね」
これをミクロクりマの工学といわずしてなんといおう。驚くべき時代だ。

生物のかたちは外からやってくる

生理学が解剖学にとってかわる。それがクロード・ベルナールの衝撃によるものだったと書いた。ベルナールが『実験医学序説』を著わしたのは1865年。それから遡ること65年、1800年に解剖学者・生理学者ビシャが『生と死に関する生理学研究』において興味深い言葉を残していたことを知った。ビシャは次のように記していたという。〈生命〉は二つのものに分けられる。一つは、〈有機的生命(vie organique)〉と呼ばれるものであり、もう一つは〈動物的生命(vie animale)〉と呼ばれるものである。前者は、消化や血液循環など、いわば身体の内側で繰り広げられる生命活動であり、それゆえ「内的生命(vie interne)」とも呼ばれる。その中心的器官は「心臓」であり「肺」である。後者は、外界からさまざまな刺激を受容し、またこれらをもとに外界に働きかける生命であるがゆえに「外的生命(vie externe)」とも呼ばれる。その中心となるのは「脳」である(市野川容孝)。脳死臨調の際に「脳死をもって死とする」のがデカルト以来の西洋近代医学のシェーマとされたが、このビシャの説をとる限り、理解はまったく逆になる。人間における「死」の判定は、動物的生命である脳にではなく、有機的生命である心臓や肺の方にあるからだ。ここで一つの仮説を思いついた。生理学によって解剖学・形態学はなぜ敗北を宣言されたのか。それは、形態というものが生物の内から出てきたものではなく、あくまでも外部から与えられたものと解釈されたからではないか。生物の形は、生物に内在する遺伝情報によって決定するのではなく、外からやってくるものによって形成される。それはなんだかわからない。が、その決定因子が生物自身にはないことだけは確かだ。その意味では、表現系という言葉より表象系という方がふさわしい。そのことによって、生物学としては生理学と比較して常に二流に甘んじる結果になったのだ。しかし、だとしたら、ここでいう形態論は、環境決定論、さらには生態学のほんの手前まできているとはいえないか。解剖学・形態学を生態学として読み直すこと。なんとスリリングなアイデア、と勝手に思ってワクワクしているぼくでした。

循環するシステムってどんなもの?

東京大学大学院新領域創成科学研究科環境学系助教授・清家剛さんにインタビュー(インタビュアーは斎藤さん)。サステナブル建築の普及を目的に、国交省が主導するかたちで2001年にスタートした環境性能評価システム「CASBEE」が実用段階に入ったといわれる。実際にCASBEE評価を取り入れることで、集合住宅、戸建て住宅はどのように変わるのか。また、まちづくりにどんな変化を与えるのか、CASBEE評価方法づくりに関わっておられる清家さんに直接お聞きした。省エネ対応だけでなく、省資源化まで考慮に入れてトータルな指標を示すとなると、現実的にはなかなか難しいらしい。が、逆に言うとこのトータル(総合的)というところが重要で、ハードルは高いが乗り越えていく意味は大きい。興味深かったのは、リサイクル材の活用のための技術開発を、もっと強力に推し進めていく必要があるという指摘だ。リサイクルは個別で解決するものではなく、業界全体、さらには社会全体の合意のもとで、総合的に進めていかないと意味がない。リサイクルを本気でやろうとすれば、これまでのスタンダードであった工業型の生産技術そのものを組み替えていく必要があるのだ。たとえば、ガラスや鉄骨のリサイクルをしようとすれば、工場生産のライン全体を根本からつくり替えなければならない。大雑把に言えば、コスト削減と性能重視でずっとひた走ってきた生産技術それ自体を組み替える必要があるということだ。言い換えれば、科学技術そのものパラダイム変換が求められるということである。サステナブル社会に向けて、デザインモデルを従来の科学から借用して何かできそうだと思っておられる専門家は少なくない。しかし、たとえば循環系にしろ代謝系にしろ、本質論に立ち返れば、従来のエンジニしアリングを少しばかり変えたぐらいではダメだということだ。循環とは単純にスタートとゴールのあるリニアなシステムではない。リニアではないシステム? そんなもの、まだわれわれは目にしてすらいないということに気付くべきだ。

クロード・ベルナールの逆転ホームラン

クロード・ベルナールの『実験医学序説』の登場によって、それまで生理学に対して優位を保っていた解剖学が、一発逆転負けに転じる。そしてその150年間、解剖学は生物学に敗北し続けるのである。この指摘はとても示唆的だ。すなわち、形態学の生物学からの退席を意味することになるからである。形態学の復興を望む者としては、生理学の負の部分をあぶり出すことから始める必要がありそうだ。「en」 最新号の遠藤秀紀さんの発言より。(ぼくがインタビューしてます)。

遺体を集め尽くす

犬山の京都大学霊長類研究所へ。遠藤秀紀教授にインタビュー。遠藤さんは、上野動物園のジャイアントパンダ、カンカン・ランランの二代目として人気を博したフェイフェイを解剖した遺体科学者だ。遠藤さんの提唱する遺体科学についてたっぷり2時間半お聞きした。詳しくは、「en」06年1月発行の新年号をお読みいただきたいが、ここではひとつだけネタを。遠藤さん、著書『パンダの死体はよみがえる』で、「遺体科学の日常は、無目的、無制限、非プロジェクトとして遺体を収集することに力を尽くす」ことだと言っている。つまり、動物の遺体という遺体をすべてもれなく一切合切、とにかく集めてしまおう、というのだ。そして、それらをすべて3次元データ化する。実際の現物と情報データが組合わさった生き物の百科全書的博物館。そのためには、巨大な収集物(遺体資料)の保管場所を確保する必要がある。おそらく、東京ドームが数個は必要になるかもしれない。これって、まさにネットワーク・ソリューションにおけるストレージ技術の発想と同じではないか。資料の収集において取捨選択をやめること。モノとコトとキゴウはすべてがあるということではじめてメタな視点に立てるのである。
パンダの死体はよみがえる

遺体科学普及の一助となれば…

「遺体科学」を提唱されておられる京都大学霊長類研究所教授・遠藤秀紀さんからtel。今、東京の国立科学博物館の別館に来ている。「今日ならあえるよ」という。「en」担当者のOさんと待ち合わせて、大久保にある国立科学博物館の別館へ。遠藤さんは今年の1月までここに勤めておられた。どうぞと研究室に案内される。「en」の概要をOさんがざっと説明。僕の方から「遺体科学」についてと今後の研究課題について3回に分けて掲載したい旨を伝える。遠藤さんは非常にまじめな方だった。そして、なにより情熱家だ。来週の火曜日に犬山におうかがいして正式なインタビューをお願いすることにした。原稿の作成を3回にわける場合もありうるというと、自分は過去に12回の連載もまとめて書いてしまった。できれば、1回でチェックさせてほしいと希望。おっと、これはすごいプレッシャー。インタビューの相手からこういわれたらやらざるを得ないだろう。資料室を見せていただく。それほど大きくないスペースに動物標本がところ狭しと保存されている。骨の資料は、ふつう部位ごとにすべて解体されて保存されるのが一般的で、いわゆる成体になっているものは、ほとんど展示用なのだということも始めて知った。スミソニアンほどとはいわないまでも、せめて今より広いスペースがほしいと。日本の文化行政のお寒い現状をかいま見た感じ。

ルネサッサンス・ジェネレーション'05はカタストロフィがテーマ

「ルネサッサンス・ジェネレーション'05」へ。気が付けば今回ではや9年目。いよいよ来年で終了だ。開演を待っていたら、Y社のH井さんから声をかけられた。2年ぶりである。セクションが変わって現場におられるとのこと。去年は、オランダ、フランスに取材旅行中でこれなかったというと、彼はあれから毎年参加しているとのこと。あれとは、4年前に、会場の下條先生を訪ねた時のこと。Y社が始めるEIフォーラムのメンバーのお一人としてぼくが下條さんを推薦したからである。定刻通りシンポが始まる。毎回満席だが、今回も空席はほとんどない状態。いつもは若い聴衆が目立つのだが、今回は比較的年代の高い層もいるようだ。各年代層にわたって女性も多い。
今回のテーマは「カタストロフィ:破断点」。近年たて続きに現代社会を襲っている突発的な事故や災害に対して、われわれのこころや身体はどのような影響うけているか、また、そうした事象はほんとうに予測不可能なものなのか。ルネ・トムのカタストロフィ理論を参照しながら、環境工学、生命科学、システム論、脳理論といった諸領域からこの問題にアプローチする。
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驚愕の技術、ブレイン・マシン・インタフェイスとは

NHKスペシャル「立花隆 最前線報告 サイボーグ技術が人類を変える」を見る。神経工学の急速な発達がこれまでSFの世界の話だと思われていたことを現実化しつつある。たとえば、両手を失った男性が人工の腕を手に入れて動かし、また、完全に視力を失った男性が人工の眼で光をえることができるようになる。いわゆる身体の一部を機械が代替するサイボーグ技術は、それでもそのうちできるだろうとは思っていたからそんなには驚かなかった。それよりなによりびっくりしたのは、脳と機械を直接つなぐシステム・サイボーグの技術だ。パーキンソン病で苦しむ患者さんの脳(運動を司る領野)に直接電極をさす。そして、それを読み取り、コントロールすることによって、薬でも治療困難だった病気があっさり治ってしまったのである。続きを読む

「外の生理学」とは何か

生態学者の遠藤彰さんが注目している「外の生理学」というのは確かに興味深いアイデアだ。遠藤さんはこう言っている。「ニューヨーク州立大学のJ・スコット・ターナーのThe Extended Organism,2000(拡張された生物体)という動物の建築物を扱った「外の生理学」のアプローチは意欲的な試みだと思います。古い生物社会有機体とまったく異なった、有機的連関性が生物体の外へどのように物とエネルギーの回路としてつながっているかという視点です。(…)遺伝子作用の限界を見据えることになるはずで、漠然とした「外部環境」と言い方では汲みつくせていないところを、生理学ですから、個体の生理の論理によって取り上げる。つまり「生きている」生物体の存立の外部基盤をおさえる話です」。この文脈から、ユクスキュルの「Umwelt=環境世界」の意味を考え直すと、ユクスキュルの見ていた環境は、われわれが現在みている外部世界とは、かなりちがったものではなかったかという想像が湧く。生理としての環境。川上紳一さんも注目している「外の生理学」、ちょっとつっこんで考えてみる必要があるかもしれませんね。

「外の生理学」とは何か

生態学者の遠藤彰さんが注目している「外の生理学」というのは確かに興味深いアイデアだ。遠藤さんはこう言っている。「ニューヨーク州立大学のJ・スコット・ターナーのThe Extended Organism,2000(拡張された生物体)という動物の建築物を扱った「外の生理学」のアプローチは意欲的な試みだと思います。古い生物社会有機体とまったく異なった、有機的連関性が生物体の外へどのように物とエネルギーの回路としてつながっているかという視点です。(…)遺伝子作用の限界を見据えることになるはずで、漠然とした「外部環境」と言い方では汲みつくせていないところを、生理学ですから、個体の生理の論理によって取り上げる。つまり「生きている」生物体の存立の外部基盤をおさえる話です」。この文脈から、ユクスキュルの「Umwelt=環境世界」の意味を考え直すと、ユクスキュルの見ていた環境は、われわれが現在みている外部世界とは、かなりちがったものではなかったかという想像が湧く。生理としての環境。川上紳一さんも注目している「外の生理学」、ちょっとつっこんで考えてみる必要があるかもしれませんね。

樹齢7000年のスローライフ

本当にスローライフやロハスを実践するなら、メタセコイヤや縄文杉になることをおすすめします。かれらのなが〜い人生(木生?)からみれば、ぼくらの一生などほんのまばたき一回分にすぎません。一粒のごはんを1000日かけて食べるくらいの覚悟がなくっちゃね。
ましてや、46億年の地球の歴史でいえば、人類の歴史自体が、瞬間のさらに瞬間のさらに瞬間ぐらい。とりあえず、スローライフは巨人族(植物さんたち)から学びましょう。B y稲垣足穂。

縞々学は「全球凍結仮説」を実証するか

岐阜大学へ。縞々学を提唱している川上紳一さんのインタビュー。縞々学とは、地層の縞から気象、海洋、天体の運動など地球とそれをとりまく宇宙の関係を探る新しい地球惑星科学だ。近著『全地球凍結』をまとめるとこうなる。「赤道地帯を含めた7億年前の地層から氷河堆積物とそれを覆う縞状炭酸塩岩と鉄鉱床の体積が発見された。この謎に挑んだのが「全球凍結仮説」で、地球は、過去にまるごと凍り付く急激な寒冷化と超温室状態を経験し、それが本来あり得ない地層を生んだという。地層に表れた縞模様から地球の歴史を探る縞々学は、この前代未聞の「全球凍結仮説」を裏付けるいくつかの状況証拠を用意する。また、気候変動のメカニズムや生物進化の解明にも縞々学は寄与しようとする」。要するに、地質学、気候学、生物学といった隣接諸科学を結び付ける縞々学は、現代における「具体の科学」(レヴィ=ストロース)なのだ。そこで、この魅力的な仮説「全球凍結仮説」と縞々学の関係をじっくり聞こうというのが今回の目的である。で、どうだったかって? それは「en」の10月号に掲載されますので、どうぞお楽しみに。
全地球凍結

縞々学は「全球凍結仮説」を実証するか

岐阜大学へ。縞々学を提唱している川上紳一さんのインタビュー。縞々学とは、地層の縞から気象、海洋、天体の運動など地球とそれをとりまく宇宙の関係を探る新しい地球惑星科学だ。近著『全地球凍結』をまとめるとこうなる。「赤道地帯を含めた7億年前の地層から氷河堆積物とそれを覆う縞状炭酸塩岩と鉄鉱床の体積が発見された。この謎に挑んだのが「全球凍結仮説」で、地球は、過去にまるごと凍り付く急激な寒冷化と超温室状態を経験し、それが本来あり得ない地層を生んだという。地層に表れた縞模様から地球の歴史を探る縞々学は、この前代未聞の「全球凍結仮説」を裏付けるいくつかの状況証拠を用意する。また、気候変動のメカニズムや生物進化の解明にも縞々学は寄与しようとする」。要するに、地質学、気候学、生物学といった隣接諸科学を結び付ける縞々学は、現代における「具体の科学」(レヴィ=ストロース)なのだ。そこで、この魅力的な仮説「全球凍結仮説」と縞々学の関係をじっくり聞こうというのが今回の目的である。で、どうだったかって? それは「en」の10月号に掲載されますので、どうぞお楽しみに。
全地球凍結

「最新号」アップしました

『談』no.74「ゾーエーの生命論」を正式にアップしました。メニューバーの「最新号」をCLICKしてください。

ビオス/ゾーエーの農業論だって!?

ビオスは個体性をもった生物体でバイオロジーの原型。そのビオスの奥に、個体性を越えた抽象的な生命、ゾーエーがある。私たちの存在はこの二つが結合したもの。としたうえで、一挙に日本の農業の抱える問題に切り込んでいくという、スリリングな議論を展開しているBlogを発見。こんな発言をするひとは誰かとおもいきや、やはり中沢新一さんだった!『談』の次号では、生態学をこの視点から考えてみようと思っていたのに。先を越されてしまいましたです〜。→遺伝子組み換え作物の〈MANDALA〉

熊手の階層進化

「今まで、物理や化学で捉えてきた階層は、一つの階段を一本道で登っていくというイメージでした。しかし、生物の場合はそうではなくて、生物の段階に入ったところから階層がパーっと複数に重なってくるのです。たとえば熊手のように、幾つもの構造や機能の階層がそれぞれに並行に階層を作っていて、それを横から全部重ねて見るので、生物は捉えようもなく複雑なものに見えてしまう。この熊手のイメージを、もっとみんなに判ってほしいと思っています」。
団まりなさんのインタビュー(「en」9月号 )より。
われわれの思考は、ちょっと油断をするとすぐにリニアー(単線的)になろうとする。思惟の経済(効率化)が働いているからだろうか。しかし、思考はその端緒から、つまり個体の誕生期から拡大、増加、複雑化へ向かって走り続けることを運命づけられていたのだ。今見えている事象のすぐ裏側には、たくさんの姿を見せない事象が、それこそ無数に存在しているかもしれない。生きものの思考、階層、進化を、試みにヒュー・エベレットの「パラレルワールド論」と対比法的に考えてみる。団さんのいう熊手というイメージがあまりに的を射ていることに驚くだろう。

設計図は家を建てられるか

○○は、日本人のDNAにすでに刻み込まれているんですねとか、ホンダのDNAは○○なのでとか、昨今のDNAの乱用ぶりには目に余るものがあります。とくに最近はゲノムがインフレぎみ。『談』では、一貫して遺伝子やDNA、ゲノムの一元論には距離を置いてきたつもりです。ドーキンスについては、ちょっと評価が変わりつつありますが、いずれにしても情報はどうあがいても情報でしかありません。暗号がすべて翻訳できたとして、暗号の意味を知ること、その意味を活かすことはまったく別。どうしてそんなあたりまえのことに気付かないのでしょうか。いいかげんうんざりしていたら、団まりなさんも同じようなことを言っておられました。曰く、「ゲノムはタンパク質のアミノ酸の配列情報を保管することはできますが、だからといってそのタンパク質をつくれるわけではありません。〈遺伝子がタンパク質を作る〉という言い方は、〈レシピが台所に立って料理を作る〉とか〈設計図がカナヅチを振って家を建てた〉と言うのと同じです。ましてや、ゲノムが臓器が再生したり人の人生を決定することなどできるはずがないのです」(『性のお話をしましょう』)。まったく同感です。ところで、DNAの太さが2ナノメートルに対して長さが2メートル。これは太さをなわとびのビニールのヒモの太さ0.5センチに拡大すると、長さは5000キロメートルにもなるんだそうです。そのうちの4750キロメートルは単なる隙間の役目しかない。この隙間はなんのためにあるの? DNAがすべてを決定するなんてことよりも、このことを考える方がよっぽど楽しいですね。

生まれたてのカタツムリ

ミルゥの散歩(妻の実家に行く時はいつも連れていくので)がてら、周囲をぐるっと散策。そうしたら、生まれてまもないカタツムリがたくさん歩道を横切ってたんぼへ向かっていくのを見た。見た目は、なめくじの背中がもりあがって殻になりかかっているような感じ。陽の光を反射して、ぬるっとした薄皮色の肌がつやつやと輝いていた。横切ってと言っても、なにぶんゆっくりなのであるいは静止しているのかもしれない。それにしても、こんなにたくさんのカタツムリを見たのは初めて。足の踏み場もないというのはオーバーだけど、普通の歩幅で歩いて、次々に踏みそうになるくらいはいた。こんなにたくさんいると、正直きもち悪い。ずいぶん前にTVで、小笠原で異常発生した大量のカタツムリが道を覆い尽くしている様子をみたが、あれもやっぱりキモかったなぁ。

見えないと技術じゃない?

うちで制作しているある雑誌で、作家にリレーエッセイを書いてもらっている。技術がテーマなのだが、なぜかみなさん(といってもまだ2人だけれど)モノについて書いてこられる。テクノロジーというお題に対して思い浮かぶのがモノ。う〜ん、なぜなんだろうか。「ものづくりニッポン」とか「プロジェクトX」の悪しき影響なのか。たとえば、目に見えない技術。システムだったりプログラムだったりプロトコルだったり。あるいは、身体の技術。技だったりコツだったり術だったり。どうも、そういうのはテクノロジーとは思わないらしい。今、技術といえば、むしろぼくはこっちだと思うんだけどなぁ。日頃工学系の人間の悪口ばかり言っているが、今日は文科系の人たちの想像力にちょっぴりがっかりしている。

科学を不必要にさせる力

神戸大学発達科学部人間環境学科教授・平山洋介さんと打ち合わせ。「en」に寄稿をお願いしたテーマについて雑談する。平山さんからこんな話を聞く。建築の科学化ということが叫ばれた時代がかつて確かにあった。ところが、現在は建築が科学であることを、むしろ自ら放棄しているようにすら見えるというのだ。マーケティングだけがひとり歩きしているという。市場の動向が何にもまして優先する。科学不在というよりも、科学を不必要にさせる力が働いているのだ。建築において、実証的な研究がなんら影響力をもたなくなったと平山さんは嘆く。やはり、ここでも科学と社会の乖離が深刻だ。グローバリズム、ネオリベの破壊力を視野に入れた科学論、社会理論の登場を期待したい。

科学的言説の加工のされ方

ひさしぶりに朝まで社長&あんちゃんと下北沢で飲む。だからだろうか、頭はかえって興奮ぎみ。快調。「en」の原稿依頼で、東京国際大学人間社会学部専任講師・柄本三代子さんに塩事業センターOさんと面会。初対面。単著『健康の語られ方』、共著『健康ブームを読み解く』で、彼女は、昨今評判の健康食品や健康グッズを例に、日本人の健康への異常ともいえる関心の高さを分析した。ユーザーの健康情報の受け入れ方、関心の持ち方を、主にメディアがそれにどう関わっているかという視点から迫っているところが面白く、以前からお目にかかってインタビューなり寄稿をお願いしようと思っていた。ようやく実現したわけだ。最近、ヘルシア緑茶を事例にまた新しい論文を発表されたばかりとのこと。健康に関わる科学的言説とそれを加工し世間に流通させるメディアの役割、『談』が追求していることとも深く関連するテーマだ。ところで、柄本さんは健康関連の研究のほかにネット自殺について学会で発表をされた。ところが、それを報じた新聞メディアの扱い方が、また興味深いものだったらしい。健康への視線とあい通ずるものがあったようなのだ。大変興味のあるところだ。さて、柄本さんの原稿は、8月号に掲載の予定。柄本さんの著書は↓。共著の方には野村一夫さん、北澤一利さんも寄稿されています。

健康の語られ方

健康ブームを読み解く

団まりなさんを館山のご自宅に訪ねる

発生生物学の研究者・団まりなさんを塩事業センターのOさんと館山のご自宅に訪ねる。ご自宅は、海から300mぐらいのところ。目の前には水田が広がり小川が流れ、背後には小高い山が連なる。典型的な里山の風景だ。団さんは、大阪市立大学を退官されてすぐに、ここに引っ越してきたという。今は、悠々自適で学究生活を送っておられる。『談』でインタビューをしたのは95年、進化論の特集をした時だから10年前だ。今回は、履歴を交えながら、現在とり組んでおられる研究についてお聞きした。団さんは、現象としての生物の進化に興味をもち発生学の道に入られた。単純なものから複雑なものへと進化していく、それはなぜかというのが関心の中心だった。それで階層性という考えに出会う。生物の階層性を複雑化の過程として見たうえで、それを生物におけるかたちの階層性として捉える。そして、細胞に注目する。有性生殖とは、ディプロイド細胞が一つ複雑さのランクの低いハプロイド細胞の階層に戻って再びそこから自己をつくり直すこと。ここに生物の本質が見いだされるという。意外だったのは、団さんのこの複雑さの発生学が、生物学ではまだあまり注目されていないことだ。分子生物学、DNA、ゲノム全盛の時代に細胞に注目している生物学者はものすごく少ないらしい。なんということだろう。ポスト・ゲノムを言うのなら、発生学の分野こそ最も重要な領域なのに(小泉義之さんもこの前の対談でそんなことをおっしゃっていたっけ)。ただ、団さんが得意とする細胞の擬人化は、ほかの生物分野で少しとりいれられるようになったらしい。団さんいわく、物理的に記述する方がそもそもおかしい。だって、細胞は生き物なのだから、一匹二匹というのはあたりまえじゃないですか、と。たっぷり2時間半、有意義なインタビューだった。詳細は、「en」の7月号から3回にわたって連載されるのでご期待下さい。
談さんの最新刊は↓

性のお話をしましょう―死の危機に瀕して、それは始まった

骨を喰らうヒトたち

かつて人類は、骨を食べていた。それが直立二足歩行を始めた理由である。という、なんとも刺激的な仮説をお持ちの島泰三先生のインタビュー最終回をアップ。これは面白いですよ。

観察とは穴があくくらい見続けること

島泰三さんの『アイアイの謎』『親指はなぜ太いのか』をきちっと読む。気が付いたこと。サル屋さんの観察という意味。とにかく、徹底的に見続けるのだ。存在が確認できれば、かれらの一挙手一投足をつぶさに観察し続ける。交尾の時には、どうやって雄雌がそれにいたるか。またいたっている間に何回したかとか、とにかく細かく見続ける。
たとえば、こんな記録。
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Nature Interfaceなんてありえない?!

自然と人間をめぐる齟齬について。以前『Nature Interface』という雑誌に関わったことがあるが、このネーチャーとインタフェイスということばの解釈が、いわゆる自然科学・工学系の人と人文系の人とではまったく異るということにあらためて気が付いた。自然・工学系の人は、基本的に自然は物理法則に則って規則正しく運動するものと考えている。いわば機械のようなものと見做している。逆に人間は、複雑かつあいまいで、機械とは正反対のものと捉える。両者をつなぐものがインタフェイスで、これもプロトコルのように、機械論的でシステマティックなものと見ている。
一方、人文系の人は、基本的に自然は複雑であいまいなもの、カオスそのものと考えている。また、人間も同じように複雑かつあいまいなものと捉えていて、その意味では自然と人間は同じようなものと見ている。それをつなぐインタフェイスだけが工学的産物と見る。
興味深いのは、生命科学・医学系の立場だ。彼らのスタンスは、人間を機械論的なシステムと捉えていること。精神医学においてすらそう。バイオロジカル・サイカイアトリー(生物学的精神医学)が主流になり、人間は脳という機械に還元されると言ってのける。生命科学・医学系の立場は、自然は複雑かつあいまいであるが、逆に人間は機械のようなものと見做していて、両者をつなぐインタフェイスも工学的道具と見ている(ちなみに、ぼくの立場は、この三つすべてを複雑であいまいなものと考えている)。
さて、この三者が同じテーブルについて議論した時どうなるか。推して知るべしだ。同じ概念、同じ言葉を使いながら、話がまったくかみあわないことにがく然とするはずである。たとえば、もしもあなたが、地球、環境、生態、生きもの、社会、心理…、こういったテーマで議論するシンポジウムに参加することがおありなら、ぜひこのことに留意して聞いてみて下さい。ほんとうこんな風にズレてるんだから。
事態をより複雑にしているのは、話している当の本人たちがそのことにまるで無自覚だということだ。ついでに言うと、そういうことを主催したりコーディネイトしたりしている人も、じつはわかっていない場合が多い。
文理シナジーは依然として分離シナジーなままなのである。

次は「いのちの記述法」

「いのち」を記録する。一見簡単そうに思えるが、これ、けっこう難しいことだと思う。東洋大学教授・河本英夫さんに、運動、移動という事態をどう記述するかと質問したところ、こんな答えが返ってきた。「細胞の動きをmovieで撮影しても、それは細胞を記述したことにはならない。しょせんペラペラマンガの域を出ないからです」。つまり、静止画像の連続状態を視覚の(錯視する)メカニズムを頼って、見る側が勝手に「動いている」ように見ているアニメーション(映画同じ)と、それ自体で動き続けてる細胞とは、まったく別だというのである。「いのち」を記録するということは、ある意味で細胞の動きを記録することでもある。とすれば、これまで行われてきたどのような記録方法も、「いのち」それ自体をドキュメントしたことにはならないのではないか。あまたある「いのちの記録」は、そのどれもがいわばアニメーションとして見た世界の記述に終始していた、とはいえまいか。生態学的心理学のアプローチは、ほんの少しそれに成功しているとは思うが、いまだ生命体の記述にとどまっているようにも思える。「いのちのディレンマ」を、記録という行為から考察してみる、次号に向けてのアイデア。「ロシアン・エレジー」のアレクサンドロ・ソクローホフや「阿賀に生きる」の佐藤真さん(!)、「A」「AII」の森達也さんの仕事が気になってきた(森さんには『いのちの食べかた』という著作もある)。学術方面では、倉地幸徳さんらの「年齢軸生命工学センター」が長時間軸のエージ機能について、分子レベルからの接近を始めている。この研究なども参考になりそうだ。

もしも、あの時…という技術発展史

某雑誌のための対談にギャラリーで参加。科学史の村上陽一郎さんと五十嵐太郎さん。内容は、そのうち話すとして、一つ面白かったのは、過去の科学的発明・発見を現在時点からたどり直した時に、もしも違う要素が入り込んでいたり、別の目的をもっていたら、まったく違うものになっていた可能性があると、村上さんがぽつりと最後におっしゃったことだ。たとえば、原子力というものが、端緒において新型兵器の開発から始まっていなかったら、ぜんぜん今とは異なったものに発展したかもしれないというのである。科学技術には、そういう側面がある。このことはもっと研究されてもいいと。『談』の企画にもヒントになる提言だ。

マダガスカル島からのmailを待つ

マダガスカル島で調査中の島泰三さんからのmailを待っている。「en」のスペシャル・インタビューのチェック原稿のことだ。おそらく今回もヌシ・マンガペ島という無人島へ入っているのだろう。ということは、しばらくは都市部に帰ってこない? 島さんは、世界三大珍獣の一つアイアイの謎を解明した世界的に有名な動物学者だ。細くて長い中指と大きな耳、大きな切歯をもつリスによく似たサル。著書『親指はなぜ太いのか』(中公新書)があまりに面白かったので帰国した時に、取材をさせてもらったのである。マダガスカル島はアイアイのふるさと。島さんは、アイアイの保護運動をしているのだ。それにしても、マダガスカル島にmailが届いてしまうというのは、やはりすごい時代だと思う。マダガスカル島はアフリカの東側、ガラパゴス島は南米の西側。どっちも一度は行ってみたいところだ。そんなことより、早くお返事こないかな。

『生態心理学の構想』

福井大学教育地域科学部助教授・三島博之さんから『生態心理学の構想』を贈呈していただく。アフォーダンスのルーツと先端というサブダイトルがついたエコロジカル・サイコロジーの最新研究を含む論文集。直接知覚の可能性を拓くマイケル・T・ターヴェイ&ロバート・E・ショウの論文「生態心理学と物理心理学の構築にむけて」が刺激的。本書と同じ佐々木正人さんと三島さんの編訳書『アフォーダンスの構想』と合わせて読まれることをおすすめします。

生態心理学の構想―アフォーダンスのルーツと尖端

『親指はなぜ太いのか』の島泰三先生のインタビュー

『はだかの起原』『親指はなぜ太いのか』の著書で日本アイアイファンド代表・島泰三先生の本郷のご自宅へ。さて、インタビューは、まず東大の理学部でサルの研究を始められた島先生が、なぜアイアイの研究へと向かっていかれたのか。謎の多いアイアイの生態を調査することが自分の使命とばかりに、高い志しをもってマダガスカル島へと向かっていったのであった、という答えを期待していたら、「いや〜、〈わくわく動物ランド〉というテレビ番組があったでしょ、あれでなんでもいいから珍獣を撮影してこいっていわれたわけ、ハッハッハ」だって。「え〜、そ、そうだったんですか」。続きを読む
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