2008年05月21日
なんでもいいと言われても…
『TASC monthly』の原稿依頼をいくつか同時にしていますが、ようやく随想に予定している団まりなさんとご連絡がとれました。二つ返事でオーケー。「でも、なんでもいいと言われても、困るわね」と。そうなんですよ、随想のテーマ、あえて言えば自由。でも、今どきこういうなんでもいいという原稿、ある意味とっても貴重だと思います。これを余裕というのでしょう。たばこが本来もっていたものは、この自由なのですから。「なんでもいい」からいいのですね。
2008年05月08日
香山リカさんが懸念するのは科学への間違った期待だ。
TASC主催で香山リカさんの講演と交流会。テーマは「こころの不安と健康幻想」。欠如から過剰へ。外敵から内敵へ。見えるものから見えないものへ。「悪いところを治す」から「よいものをよりよくする方向」へ、現代の病が根本から変化していることに注目する。科学的思考とは、まだわからないことがあることを明らかにするところにあるのに、市民は逆にシロクロをはっきりさせてくれるのが科学だと思いこんでいる。科学的な真理をいくら並べ立てても市民は納得してくれない。市民が期待しているのは、それがシロなのかクロなのか、である。そうした市民のニーズに応えようとすればするほど、科学者はうそつきにならざるをえない。そして、前世を語る人のことばに反応し、民間医療に期待をかける。こうした図式が、ニセ科学というものを生み、また、市民はそれに騙されたがっているのだ。現代のこの状況は、まだまだ続くことなのか、あるいは、もっと別のものに変わっていくのか。香山さんの意見はいかに。望ましい方向にいくのではないことだけは確かなようだ。臨床経験をもとに現状を分析する香山さんの話は、説得力があって示唆に富むものだった。
2008年05月07日
聴覚と脳のしくみの不思議摩訶摩訶な面白話。
公開対談最終日は、柏野牧夫さんと池谷裕二さんの対話。
柏野さんが、まずデモを中心としたプレゼンを行う。というか、最後まで、PPの映像を出しっぱなしにして、池谷氏が質問やコメントすると、それに相応しい画像を「これですね」と柏野さんがすぐに出すというしくみ。みごとなかけあいだった。柏野さんが問題を出して、オーディエンスに答えてもらうという実験もやった。「え〜?!」となるような意外な結果が出て、一同びっくり。そんな感じで演者、聴衆、一体となって議論は進んでいった。
ゆらぎの重要性、安定/不安のパラドクス、耳の解剖学的構造、知覚の研究、バナー効果、運動系とのつながり、声の問題、タイミングとズレ、音痴とは何か、新奇性と親近性、魅力度=新奇性×分解能、予測と報償系回路の関係、自発活動と知覚の遷移の問題…などなど。2時間20分がまたたくまに過ぎていった。このままやっていたら、永遠に終わらないのではないかと思えるような熱心な対話。あまりに面白かったので、逆に活字にするのは難しいかも。なんて、言ったら怒られそうですね。でもあえて言わせてください。今回のは、ライブだからこそ面白さ100倍でした。
2008年03月23日
ニセ科学とスピリチュアル、そして不都合な真実
物理学者の菊池誠さんと香山リカさんの対談集『信じぬものは救われる』(かもがわ出版)を贈呈していただきました。
いわゆるニセ科学問題について言及している菊池さん。また、スピリチュアルにハマる人の心理を解剖する香山さん。科学を装ったインチキに、現代人はなぜかくもコロっとだまされてしまうのか、徹底的に話し合った一冊です。
今、ちまたで評判の「シロクロはっきりさせてよ主義」「なんでも検定主義」「あなたの前世は主義」…、じつはみんな根は同じだったんですね。本書を読ませていただいて、それを確信しました。
菊池「ニセ科学を信じるのと、江原さんのことを信じるのとは、だいたい同じ(…)。要するに欲しいのは説明(…)」「〈イオン〉という言葉が好きな人と、〈オーラ〉という言葉の好きな人がいる。だけど、本質的にはそんなにちがわないんじゃないかと思っています」
香山「いわゆる脳を鍛えるトレーニングも同じ仲間に入れてほしい」
菊池「ニセ科学が流行するのは、実は科学の問題じゃなくて、もっと広く、二分法的な思考の単純化という世間の風潮があって、そのなかの一つの現象」
香山「効きさえすれば、べつにそれが本当なのかとか、そうじゃないのかとか、そのへんはあまり問わない」「典型的なスプリッティングという原始的防衛なんです」
菊池「温暖化の問題でも、倖田來未ちゃんみたいに『水からの伝言』を信じているお嬢さんが出てきたりして、つながってはいるんです。おそらく彼女にとって、地球温暖化防止はニューエイジ的なセンスなんですね」
香山「温暖化防止は(…)科学的な視点にたったものだけど、それとまたニセ科学的なものがつながっている」
菊池「マーケティングレベルでは(…)、ニセ科学やスピリチュアルにまったく勝てないですよ」「マーケティングを考えなくてはいけないと」
「水からの伝言」→「脳内革命」→「スピリチュアル」→「納豆ダイエット」→「マイナスイオン」→「コエンザイムQ10」→「代替医療」→「地球温暖化」へと緩やかにつながるニューエイジ的なものが確かにありますね。これはいったいなんなんだろうかと思っていたんですが、どうも裏には、マーケティングというものがありそうです。じゃぁ、いったい誰がやってるのか。どうやら、本当の問題はそのへんにありそうです。「不都合な真実」という名のニセ科学!!
信じぬ者は救われる
2008年03月06日
「新日本風景論」の奇才による林業エンサイペティアついに登場
細密画の鶴岡政明さんからご著書『イラスト図解 造林・育林・保護』『イラスト図解 林業機械・道具と安全衛生』を贈呈いただきました。鶴岡さんには、80、90年代と『談』の表紙を担当していただいた。「新日本風景論」と題したその企画は、志賀重昴の向こうを張って、あくまでも地理学的視点で日本の風景に迫ろうとしたもの。ぼくの中で「風土」というのがテーマになっていて、自然科学と民俗誌を一体化させたようなものをやりたくて彼にお願いしたのでした。最後の数回は、鶴岡さんに細密だけでなくテキストもお願いして、それはそれはいい企画だったのですよ。個人的には「浜岡の砂丘」「奥入瀬渓谷」「屋久杉」あたりがベスト3と思っていますが、砂、霧、瀑布が大気と一体化した環境世界を見事に描き切っています。地形、気候、生活を構成する風景=風土を細密で描かせたら、たぶんこの人の右に出るものはいないと思います。
その鶴岡さんが手がけた林業大全ともいえるものがついに登場。「森林土壌」、「枝打ち」といった直球ものにまじって、「チェンソー」、「ワイヤーロープの種類」、「ヤマビル」対策といった項目もあって、まさに林業のエンサイクロペディアになってます。細密画は言うまでもありませんが、テキストがいい。鶴岡さんて、じつは昔からちょっぴりヘンなところがある人でしたが、そのちょっぴりの部分がトッピングになっていて、うんとこさオモロイものにものになっている感じ。もちろん、ぼくのように林業のリの字も知らない人間でも面白く読めますよ。そういえば、細密画にもこのちょっぴりヘンが、けっこう隠し味になっているのかも。
イラスト図解 造林・育林・保護イラスト図解 林業機械・道具と安全衛生
2008年03月03日
人文系のこだわりは、そうでない人には無駄なものに無意味に見えるのかも。
16時より会議。再来週に控えている研究会の打ち合わせ。研究会もいよいよ今度で最後。報告書に向けての最後のディスカッションだ。廣中先生がつくる報告書の構成についてのプレゼンテーション。分析のための切り口を披露される。これがとても面白い。人文系の立場から見るとちょっとあり得ない視点。その新鮮さに驚く。ただ、欲を言うと、人文系の立場では何かもう一つ足りない気がする。それで、3つの切り口に、もう一つ加えてみてはと提案。ところが、それに皆さん引っ掛かってしまった。廣中先生もサポーターの工藤君も、ともに理解してくれたのに。それで、30分あまり議論。この日は、急いで帰宅してやらなければならないことがあったのに、墓穴を掘ってしまった。まぁ、まったく無意味な提案ではなかったので(と自分では思っているけれど)、本ちゃんでちゃんと議論すれば、結果的にいい報告書が書けるはずですから、お許しいただきたい。
2007年12月20日
ゴジラ・モスラから原水爆のイメージを解読する
筑波大学大学院人文社会科学研究科教授・好井裕明さんから新刊『ゴジラ・モスラ・原水爆 特撮映画の社会学』(せりか書房)を贈呈していただきました。好井さんは「人びとの社会学」の立場から、差別や排除問題を研究されておられます。「人びとの社会学」とは、「人びとの日常に埋め込まれ、痕跡をとどめないほどにまで溶け込んでいる"ものの見方や感じ方"、その影響のありようや影響の"根拠"を探り出そうという営み」ですが、好井さんがとくにこだわって考察されておられるのが映画体験です。
本書は、いわば映画体験の社会学という視点から氏が子供の頃から親しんできた「怪獣映画」を読み解こうというもの。「怪獣映画」は、子供にとっては娯楽映画の花形。氏(1956年生まれ)と同世代の筆者も怪獣にどっぷり浸かったくちですが、ここで取り上げているのは、その怪獣映画に色濃く影を落としている原水爆のイメージです。特撮怪獣映画そのものが核のイメージによって成立している。ところが、怪獣映画にとって重要な要素であった原水爆のイメージが、最近作ではみごとに払拭されている。それはどういうことなのか。そこにどのような力が働いているのか。
原水爆のイメージが、日常生活を通してどのように浸透していき、またそれが今日どのようなかたちで変容、終焉していったか、映画体験を通して例証しようというのが本書の試みです。「怪獣映画」「特撮映画」が純粋に好きな人には、ここでの読解が偏って見えるのでは、と著者は心配しているけれども、そんなことはないですよ。だって怪獣というもの自体がそもそも偏奇なものの代表のような存在ですし、その意味ではそのバックグラウンドを知ることなしに、「怪獣映画」を楽しむということ自体筆者(おそらく怪獣ファンのかなりの人も)には考えられないことなのですから。
「映画の社会学」だけでなく、メディアリテラシー、あるいは生-権力の言説研究に関心のある人にも読んでいただきたい一書です。
ゴジラ・モスラ・原水爆?特撮映画の社会学
2007年10月14日
犬と交信できる人
犬と交信できる人がいるらしい。そのお方が来日すると、毎回たくさんの人が愛犬をつれて、そのお方からありがたいお話を賜るのだそうだ。性格がよくて家族とも仲良くやっているように見えるけれども、じつは家族をバカにしていて、自分が天下さまだと思っている犬、一見臆病で会う人誰にも吠えるが、じつは本人は、何も考えていなくて、ただ条件反射的に反応しているだけのおとぼけ君、とか瞬時にその犬の性格を見抜くのだそうだ。中には、一目見ただけで、この犬は心を病んでいる、飼い主とは心の触れ合いができない、即刻お互い離れた方がいいといわれてしまった人もいるとか。飼い主にはうれしい言葉ばかりではなく、こんな青天の霹靂的お言葉に、かえって不快な思いをすることもあるのだそうだが、相談料は一律1万5千円。「○○ちゃんは、いつもなに考えてるのかしらねぇ」と気軽な気持ちで相談したら、即刻、飼い主をバカにしているとか、早く別れなさいとか言われたのでは、なんのために相談したのかわからない。このお方は、その犬の前世までわかるらしく、飼い主が百姓で、愛犬はその地主だと言われた人もいたとか。ニセ心理学者が横行するなかで、犬の心をもてあそぶ(いや飼い主の心をもてあそぶか)こうしたニセ・ドッグ・セラピストにはご用心、ご用心。
2007年08月28日
立ち位置の違いは決定的ではない。
昨日、今日と二日間にわたる合宿に参加した。レギュラーの研究者の方々とゲストをお迎えしてのディスカッション、非常に中身の濃い議論ができた。今回のゲストは、池田清彦先生と河本英夫先生。池田先生は、構造主義生物学(科学論)からのアプローチ、河本先生は、オートポイエーシスからのアプローチ。一見両者は無関係に見えるけれども、ぼくには、立ち位置が違うだけでじつはお互い非常に近い間柄にあると見ている。もっとも、この立ち位置の違いこそが、ある意味では両者を決定的に別のものにしているとはいえるのだけれど。つまり、外部から、神の目でその事態を見るか、逆に内部から、いわば運動する等のものそのものになってみるか、という違い。立ち位置の違いこそ決定的じゃないか、といわれればそれまでだが、決定論か非決定論か、離散的世界か自己同一的世界かという二項対立の、それ自体を無効とする立場を貫いている、という意味で両者には強い親和性がある、と思うのだ。会議終了後、酒を飲みつつお二人の先生にじっくりと伺ってみたが、この考えに間違いはなさそうだという確信(といえるほどでもないが)を得た。ぼくにとっては、とても有意義な二日間だった。
2007年05月09日
人間とクジラとのあるべき関係とは。
作家・翻訳家の星川淳さんから『日本はなぜ世界で一番クジラを殺すのか』(幻冬舎新書)を贈呈していただきました。星川淳さんには、『談』no.44「カウンターカルチャーの進化論」で、当時お住まいの屋久島でインタビューをさせていただき、また、no48「混合主体のエチカを求めて」(シンポジウムの記録)では、パネリストとして参加していただきました。
星川さんは、2005年よりグリーンピース・ジャパンの事務局長をやられています。本書は、そのお立場から、あらためて捕鯨問題の本質を問い直そうという意欲作です。その複雑な関係から見えてくるゆがんだ構図、グリーンピースの反捕鯨運動自体にもまなざしを向け、人間とクジラとのあるべき関係を再構築し直そうとします。捕鯨というものがどういう意味をもっているのか、エコロジー運動の文脈のなかから考察しようという態度には、思想の違いを超えて共感するところが多くありました。
日本はなぜ世界で一番クジラを殺すのか
2007年03月09日
モルフォロジー科学の可能性とウォディントンの閃き。
機能から形態へ。モルフォロジー科学を復活させる意味はどこにあるのか。ぼくの仮説はこうだ。たとえばクルマは、止まる機械という見方がある。確かに、走り出したら止まらないでは困るのであって、走ることを目的にしながらも、止まることができなければクルマとはいえない。クルマは制御の機械である。しかし、これは半分しか正しくない。クルマは当然のことながら、走る機能を特化させて機械でもあるからだ。見方が違うのである。機能から見る限り、こうした混乱は常に起こりうることである。現に走っているただ中で止まることはできないし、またその逆もない。それは、機能から見ているからだ。
形から見てみよう。走っているクルマを写真に撮るとする。写真という静止画のなかでは、クルマは止まっている。静止画像のクオリティを上げていけば、ますますそれは確かなものになるだろう。静止画のなかのクルマは、走っている=動いているのか止まっているのか、厳密には判別できない。おなじことは、たとえばサッカーのフェイント。ロナウジーニョの足下にボールがきたという場面を写真に撮った。彼は、トラップをし、次の動きを始めようとしているかのように見える。ところが、実際は、その一瞬後、彼はダイレクトで見方にパスを出したのである。切り取られた写真を見る限り、トラップをしているようにしか見えない。機能から推論するから、ロナウジーニョはフェイントの魔術師になる。
形から考える意味は、まさにここにあるのだ。形とは、この場合の静止画を意味している。形は、時間を凍結した姿として現象する。常に、そこには動こうとする方向と止まろうとする方向が共在している。同時に全く正反対のベクトルが内在しているのだ。クルマは形のなかでは、動くことと止まることが同時に起こっている。ロナウジーニョの身体は、トラップしようとすることとキックしようとすることが判別できない形で同時に起こっているのである。形から発想する意味がここにある。同時に起こることは、機能の論理構造では「矛盾」となる。形には、機能が凍結している。もとより、それはそう見えるにすぎない。じつは、あらゆる動き、方向、運動を同時に内在し、にもかかわらず止まっているのが形というものの本性なのだ。分岐しつつある今が、形というものの正体である。
モルフォロジー科学の可能性がここにある。それは、河本英夫氏の言う二重作動であり、ヴィゴツキーの言う発達の最近接領域であり、またマッテ・ブランコの言う二重論理である。ウォディントンは、それを科学の言葉で言い直した。「エピジェネティック・ランドスケープ」がそれである。
2007年03月06日
工学は理系では左翼、しかし、文系では右翼。
文理シナジー学会に所属していたこともあって、日頃から文系、理系の間に横たわる深くて暗い川(野坂昭如?)の存在が悩ましく感じられていた。ほんとに文理の融合、文理の総合なんてできるのかと問うことは重要だけれど、その埋めがたい溝がではどうして生まれたか、ぼくにはむしろそっちの方に関心があったのだ。昨夜アーティストの木本圭子さんと話していた時に、ふとこんな仮説が浮かんだ。両者を分かつのは、じつはその見方そのものにあるのではないかということ。どちらの立場から見ているのか、ということ自体が、両者を分けてるいるのではないか。以下がそのアイデア。『談』no.73で広井良典さんがアメリカでは、保守主義が右でリベラルが左、ところが欧州では、リベラルは右で左にあるのは社会民主主義。つまり、社会民主主義ーリベラリズムー保守主義という図式になっていて、この図式が正しく理解されていないと大変な誤解が生じるというものだった。これはそのまま、科学、工学、人文科学の区分けにいかせるのではないかと思ったのだ。つまり、理系では、最も人間の営みから遠くにあるのが科学。さしあたって数学がその権化だろうが、図式で言うと理系の世界の最右翼に位置する。その逆に、人間の生活、生き方に最も近いのは工学。端的に人間、社会に役に立つ、利用可能なのが工学である。工学とは、その意味でまさに応用科学である。したがって、理系の世界では、最左翼に位置付けられる。一方、文系ではどうか。じつは、人間の活動、生活を表象のレベルでみる限り、最も遊離しているのが工学である。まさにそれは機械が活動する領域であって人間が入る余地がない。だからこそ、逆に工学ではヒューマンスケールということが声高にいわれたりもするわけである。つまり、文系の世界では、工学は最も右に位置付けられる。反対の極にあるものはなにか。人文科学である。人間の営み、生活、生き方に最も接近している領域こそ人文科学である。哲学、社会学、精神分析とかがその代表である。
下のような図式になっているのではないか。
理系の世界 工学(engineering) 左←[人間、社会]→右 科学(science)
文系の世界 人文科学(liberal arts) 左←[人間、社会]→右 工学(engineering)
この図式は、理系からみた場合の工学の位置づけ、文系からみた場合の工学の位置づけを表している。さて、どうだろうか。 『談』の最新号のeditor's noteにも記したように、岡田節人さんが、生命科学は、再び生物学に回帰するべきだという言葉をもう一度噛みしめてみたい。理系の世界に棲む人々にとって生命とは物質そのものであり、工学的な操作可能なモノなのだ。ところが、文系に棲む人々は、生命とはスピリチュアリティであって、工学を寄せ付けない「いのち」あるものとして理解している。だからこそ、理系では、その生命に「いのち」あるものを再発見して、再び生物学へと回帰しようとしているのてはないか。だとしたら、文系の人々は、「いのち」をどう捉えているのか。ひょっとすると、理系とはまったく反対の方向に向かいつつあるのではないか。この問題は、少し立ち入って考えてみたいと思っている。
2007年02月17日
快感サーキットの逆回転てありますか?
某企業の会議で、廣中直行さん、篠原菊紀さん、山下柚実さんらと同席。このお三方、じつは4年前のEIフォーラムとその発展系であった研究会のメンバー。これから、しばらく定期的に合うことになるわけで、今から楽しみ。今回は、その準備会。終了後の懇親会でのこと。篠原さんに、パチスロに盛んにアニメやテレビネタが使われているのはなぜと尋ねると、「それぼくよ」と。やはりというか、パチスロ業界のアドバイザー篠原さん自らが仕掛けたらしい。『さよなら絶望先生』のネタでは、最近の若いもんは、「アタックno.1」も「北斗の拳」も「幻魔大戦」も出会いはまずパチスロ。その後アニメやコミックに行くらしい。ベクトルが逆向きというか回帰現象(!?)。そのうち、パチスロでまずリリース。それから実写になってアニメやってコミックになって、なんてことがどんどん起こってくるかも。それをまた篠原さんがNRSで…。同じように、脳内報酬系のサーキットも逆回転しだしたらとても面白いことになりますね。ていうか、これが廣中先生の言うcravingかしらん。
2007年02月11日
ニューロンは意志を経由しないでチョキを出させた?!
池谷祐二さんに言わせると、ニューロンの活動の方が意識より早いという。そのため、自由意思などないという見方をする神経生理学者がいるという。意識する以前に、脳の方が活動してある行動を起こしている。そんなことがあるのだろうかと思っていたら、確かにそれを実感できる時があることに気がついた。じゃんけんの場面だ。たとえば、じゃんけんぽん! で、ぼくがチョキを出したとする。他のひとは全員パーを出したのでぼくの勝ち。わっ勝ったぞと一瞬喜ぶけれど、それはぼくが熟慮したうえで決定したわけではない。気がついた時には、チョキを出していたのだから。そして、出し終わった時には、じゃんけんというのは、もう自分の意志で決定したような気になっている。これがホントだとすると、これまで直感と思われていたことも、ほとんどはニューロンの活動の結果なのかもしれない。シナプスが発火し、手がチョキを出す、そして最後にチョキを出すぞと閃く。脳→行動→意識のタイムラグ。人間にはまったく異なる3つの時間が流れている。しかも、意識が一番遅れてくるという事実!!
2007年02月09日
木本さんのメディア芸術祭大賞受賞のお祝い会
木本圭子さんのメディア芸術祭大賞受賞のお祝い会に出席しました。工作舎の石原剛一郎さんが幹事をかって出てくれて、木本さんの縄張りであり工作舎の縄張りでもある勝ちどきの居酒屋「やまに」に集合。グラフィックデザイナーの勝井三雄さん、オートポイエーシスの河本英夫さん、多摩美術大学教授の永原泰史さん、武蔵野美術大学教授の寺山祐策さん、東京都写真美術館キュレーターの森山朋絵さん、写真家の伊奈英次さんらの他に、合原複雑系数理モデルプロジェクトの方が数人参加、さながら文理融合のコロッキウムという感じの、じつに面白い集まりになりました。木本さんは「友だちいないし」と口癖のようにいってますが、どうしてどうしてこんなにすごい人たちが、わっと集まってくるのですがたいしたもんです。それにしても、この受賞、今後の彼女の仕事をさらに飛躍させていくきっかけになるような気がします。もっともっと応援しないといけないな、と自らに言い聞かせたのでありました。余興のじゃんけん大会で、写真美術館の展覧会図録『超ヴィジュアル』のフランス語版をゲット。森山さんありがとうございました。
2007年02月02日
カオスバッタから、数理の花園へ、駒場の倉庫の密かな愉しみ。
早稲田大学理工学術院教授で同大学都市・地域研究所所長・佐藤滋さんのインタビュー。卒業制作の時期なので、エレベーターを出ると、床につくりかけの作品(模型)がたくさん置かれている。足の踏み場もない状態。佐藤先生には、「ジェイコブスの宿題」で、具体的なまちづくりに引き寄せてお話しいただいた。風土や地理的な環境を活かしたかたちで発展してきた日本の町は、ジェイコブスの暮らしたアメリカや都市の理想としたヨーロッパのそれとは大きく異なる。また、すでにそれぞれの町には地元に根をはやして活動する多種多様なまちのプレーヤーが育っている。ジェイコブスが批判した60年代のアメリカとは、社会的な基盤も違っている。日本的な自然環境を活かした、日本独自のまちづくりをよりいっそう進めていくのがよいという結論。今日はカメラマンに徹していたので、細かい議論は聞き逃してしまったが、たぶんこんな話だったと思う。西武線沿線はなじみがないが、沼袋の他に、新井薬師、野方、都立家政、鷺宮の立体化にあわせて、それぞれの地域でまちづくりが進行している。なかでも、沼袋はがんばっているらしい。
午後は、『談』のデザイナーの河合くんと待ち合わせて東大駒場の生産技術研究所へ。ERATOのオープンラボで、ERATO合原複雑数理モデルプロジェクト技術員・木本圭子さんを訪ねる。倉庫みたいでしょ、と案内されたラボは、なんのなんのステキな工房だ。文化庁第10回メディア芸術祭アート部門大賞(最高賞)になった受賞作品のデモを30インチのモニターで見せていただく。いろいろ話を聞いていたら、じつは最近こんなのつくっちゃったのよ、と奥からもってきたのがなんと立体作品。これが面白い。数理と式の深い森を抜けると、花々が咲き乱れる広い庭に出たという感じ。彼女は、いよいよアートの世界に着地した。しかも今度はカラー。種を明せば、やはりこれも数理が生み出した花園。ますます加速度が上がっている。これを素材にした作品を提供してもらうことで合意。77号の『談』は、いつにもまして、表紙と中のヴィジュアルが強力だ。乞うご期待。
2007年01月26日
30億年生き続けて思うこととは……。
物理学者・橋本淳一郎さんは、ベルクソンの『創造的進化』について、こんなことを記している。
「生命は、進化こそ自然選択にまかせるものの、個体としては創造的に行動する。その秘密は何か。それは、ひとえに30億年を越える時の重みである。科学では、一億年という歳月をこともなげに扱うが、一億年を実際に経験することは、神の恩寵などを超える何かであるはずである。この長い歳月の間に、奇跡が起こったと考えてもよいであろう」。
30億年、いや1億年ですら生き続けている生命はいない。確かにそうだ。なのに、それを考えてしまえる自分が現にここにいる。これは凄いことである。われわれは、そのことをまだ十分把握しきれていない。人間の認識能力の計り知れなさに、われわれはもっと驚くべきである。
と同時に、こんなことも想像してしまった。仮に30億年生き続けていれば、奇跡としか思えないことを何度も経験するのではなかろうか、と。ヒトの一生はたかだか80年。脱皮した蝉は、夏しか知らない。蝉の生涯は約170時間。われわれらからみれば、なんと短い人生(蝉生?)だろうかと思う。しかし、かくいうわれわれだって、30億年生きる生き物から見れば、一瞬(佛教でいう刹那)だ。じっさい、縄文杉にとって屋久島の人々の出現は、その一生(杉生?)にほんのちょっぴりかかわるささいな事件程度でしかないだろう。今後奇跡としか思えないことが起こっても、なんら不思議ではない。
距離と時間が物理学者にとっては基本概念である。速度はそこから導かれる派生的量としか見なされてこなかった。生命の視点に立つと、この物理学の常識は覆される。速度が全てに優先するからだ。速度がまず基点に置かれ、距離や時間は派生的なものと見なされる。
生命論とは、この速度=運動から世界を見返すことではないか。そこに、生命を思考することの真の意味があるように思える。30億年を想像できること、われわれはそのことにもっと震撼すべきなのだ。
2007年01月25日
ソラミミストは、○○な細胞をこんな風に聞きました
金子邦彦さんのインタビュー原稿がチェックからもどってきたので、読み直してみると、あららら、えっらい勘違いをしておりました! 「優れた生物学者は時に独特の言い回しをする」という文脈で、「活発な細胞を〈生き甲斐細胞〉と呼ぶんだよ」、とおっしゃったのです。確かにユニークな表現、面白いので原稿にいれたのですが、これがとんだ間違い。「生き甲斐」ではなくて「活きがいい細胞」でした。インタビュー時のメモを読み返したら、やはり生き甲斐と書いてあります。空耳アワーじゃないんだから気をつけなければね。と思いつつも、ふと、「生き甲斐細胞」というのも悪くないかも、と。優れた生物学者が○さんのことだとしたら、「生き甲斐」も使いそうな気がしたものですから。もちろん、これはぼくの勝手な感想。
2007年01月20日
あのフェラディーだって疑似科学にコロリといくこともあるというお話
たった1本のろうそくから、その製法、燃焼、生成物質を語ることによって、サイエンスすることの面白さを教えてくれた『ろうそくの科学』。フェラディーのこの本を読んだ人は多いでしょう。ぼくは、ちょっと遅れて高校生の時に読みました。そのファラデーさん、じつはこんなことを書いていたのです。「いたるところでロンドンの大気を脅かしているものに、アンモニアと呼ばれる物質があります。この物質は、幾人かの工場主によって多く生産されているものですが、硫黄を含む蒸気やからだから発するミアスムと一緒になると、絵画を損ねてしまうことになりかねないでしょう。(…)絵画をたやすく傷めてしまうほどに、大気は、群衆のミアスムと蒸気で飽和しているのです」と。「ミアスム(瘴気)」とは、汗や唾液などのアンモニア性の発散物を通じて群衆の身体から発生する一種の臭気のこと。それが美術館では絵画に悪影響を及ぼすというのです。18世紀のロンドンのナショナル・ギャラリーに、労働者や黒人、娼婦たちが大挙して訪れた時に、それを見て語った一言です。どんなに優れた科学者でも、時代が時代なら、疑似科学に騙されることもあるという教訓です。もうすぐ書き終わるインタビュー原稿で、インタビューイーが著わしている本に出ていたちょっと気になる話。
2006年12月20日
急がば回れ、というがホントにそういくか。
金子さんの原稿をつくるために、『生命とは何か』、「生命誌」no.40の中村桂子さんとの対談をあらためて読み直す。金子さんと共同研究をする阪大の四方さんの研究室のHPなどもリサーチ。それで、ホントは原稿を書き始めるはずだったが、資料のチェックで終わってしまった。しかし、時間をかけてでも関連資料は丹念に目を通しておいた方がいい。結果的にそうした方が早く終わるのだから。急がば回れ。
2006年12月19日
科学の再現性と統計学のあやしい関係
田井中さんから送られてきた池谷さんの原稿を再度チェック。テープ起こしと照合する。それをやっていたら、お三時もすぎてしまった。加筆したりして終了したのが18時。原稿の執筆どころではなくなってしまった。エルゴード性と非エルゴード性について、僕自身きちんと理解していないことが判明。科学の再現性と統計学の関係なんて、テーマとしては抜群におもしろそうだけど、肝心の素養がない。今から勉強し直すとしても、語学以上に至難の業だ。
2006年11月29日
同緯度の標高数値を元にしたアーティフィシャル・ランドスケープ
事務所へいく前に千代田線で北千住まで行く。東京芸術大学音楽学部アートリエゾンセンターで開催されているインゴ・ギュンター「TOPOLOGY DRIVE 理性、信仰、政治を超える地平」を見る。長年続けているプロジェクト「ワードプロセーサー」の他に、タイトルにもなっている「トポロジー・ドライブ」が圧巻。大教室いっぱいを使って「日米の北端から南端まで、同緯度の標高数値を元にして風景画のように表現した、映像とオブジェのインスタレーション」。しかし、今一、いや今三つぐらいピンときませんでした。展覧会に合わせてつくられた80mm×760mmの細長い「凹凸のある地平線」のリーフレットはかっこよかったけれど。
2006年11月25日
心身を拡張する「トランスヒューマン」な時代がもうそこまで来ている
インターシフトの宮野尾さんからラメズ・ナム著『超人類へ バイオとサイボーグ技術がひらく衝撃の近未来社会』を贈呈していただいた。
本書は、書名が示すとおり、遺伝子工学・脳科学・神経工学の進展によって、われわれの心身がどのように拡張されていくのかを実際の成果をもとに紹介した衝撃のレポートだ。その内容は、度肝を抜くものばかり。たとえば、米国防総省DARPAが試みる脳へテレパシーのように思い(イメージ・音声・触感など)を伝える技術。記憶力を数倍にする脳内CREBを増やす薬の開発。遺伝子操作により寿命を200歳まで延ばす可能性のある実験。肌の色をファッションのように一時的に変える技術。脳内にダイレクトに映像を投射する脳内シアター。などなど。以前、NHKスペシャル「立花隆が探るサイボーグの衝撃」をこのブログで紹介した。DARPAで進められていた技術が中心だったが、本書によればそれはほんの一部にすぎない。われわれのこころやからだ全体が、根本から変革されようとしているのだ。そうした潮流は、「トランスヒューマニズム(超人間主義)という考えを誕生させ、すでに「トランスヒューマニスト協会」という団体さえ生まれ、活発に活動をしているという。
人間の能力を拡張していく、その倫理的な是非はともかくとして、現実に今起こっている現状を冷静に見つめ、こうした動向を見きわめることはぜひとも必要なことだ。本書は、そのための格好の資料だといえる。
著者は、マイクロソフトのInternet Explorer とOutlookの開発者のひとりで、バイオやナノテクノロジーなどの先端技術についても造詣が深く、みずからナノテク企業を起こしCEOを務めている。
超人類へ! バイオとサイボーグ技術がひらく衝撃の近未来社会
2006年11月08日
脳の出力依存性が「情動」だといまさら理解できても遅いのだ。
editor's noteの準備で資料を読み直す。「情動機能」をなぜ今とりあげるのか。その動機を明らかにするところから始めることにする。アントニオ・ダマシオの『感じる脳』と『生存する脳』、ジョセフ・ルドゥーの『エモーショナル・ブレイン』、ルック・チオンピの『基盤としての情動』、松本元、小野武年共編の『情と意の脳科学』を再読。ダマシオは思い切って書いているつもりなのだろうが、もともとぼくはアンチカルテジアン。数年前に読んだ時まるでぴんとこなかった。今更身体が大事だといわれてもそれで? という感じだったが、ソマティック・マーカー仮説が一種のシステム現象学だと思うとがぜん興味が湧いてきた。ダマシオは、古いものの方が断然面白い。それより、今回の収穫は「情と意」だ。以前ご一緒した研究会で松本元さんが出力依存性を強調していた意味が読み直してみてようやく理解できた。つまり、情動は出力で、その出力に脳は依存しているということ。シャクター流に情動体験と情動表出はラベルはりにすぎないと思い込んでいたために、表出が出力だというあたりまえのことに気づかなかったのだ。松本さんに「出力も入力もない系があるんですよ!」と食って掛かったところで、そもそもコンテキストが違っていたのである。天国で松本さんはきっと笑っておられるに違いない。いまさらながらおはずかしい話だ。
2006年10月28日
菅原文太さんが捕鯨船に乗る番組に遠藤秀紀さんがコメント
京都大学霊長類研究所教授・遠藤秀紀さんからの告知です。
「昨日出た週刊文春155ページに私の最新刊が紹介されています。ご参考までに。
あ、この番組は宣伝しないと誰も見そうも無いので(笑)、宣伝を。BSで菅原文太さ
んが捕鯨船に乗る番組。僕はごく短いコメントで登場の予定です(笑)。以下です。
http://www.nhk.or.jp/nagoya/program/bangumi/sonota_061031_1.html
お暇でしたらどうぞご覧ください。」
2006年10月18日
「よどみ」から新たな「よどみ」へ向かう生命とは。
『談』のインタビュー。東京大学総合文化研究科基礎科学科教授・金子邦彦さんを駒場に訪ねる。テーマは「生命システムをどのように記述するか」。「生命システムは、よくできた機械ではなく、いいかげんで複雑なダイナミクス。それが増殖する。その"増え続ける"ということに着目するとシステムの普遍的構造が見えてくる」。それを探り出そうというのが金子先生の研究であるが、そこで「増えていく時に変化してもほぼ同じ状態になり続ける"よどみ"」に注目する。「よどみ」とは何か。一種のマクロな安定性と考えられるのだが、ずっと留まり続けるわけではなく、常に変化するという特徴をもつ。増え続けながらも、その変化の過程で「よどむ」状態がしばらく続き、また変化を開始する。マクロとミクロの関係が循環しているような構造になっているというのである。熱力学であれば、平衡系に閉じてマクロな性質だけで記述できるが、生命システムは、マクロ→ミクロ→マクロと変化していく過程で、いったんバランスを保つ(それが「よどみ」)が、しかしそれで終わらずに、また変化していく。こうした性質は、これまでの力学系で記述することは難しい。そこで、金子先生は、「大自由度力学系」を構想するのである。
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2006年10月17日
TVは時に科学者を疑似科学者にしてしまう?!
TASC会議室にて、「科学と疑似科学どっちがホントっぽい? ……科学的正しさの機能不全」というテーマで鼎談を開催。出席者は、東京大学大学院教育学研究科教授・金森修さん、名古屋大学大学院情報科学研究科教授・戸田山和久さん、帝京大学経済学部助教授・小島寛之さん。
疑似科学が蔓延している現状を確認したうえで、何がそういう状況を生み出しているのか、その問題点は何か、さらには、何が今必要なのか、自由に議論していただいた。
科学者側にその責任の一端があるのならば、科学者も反省し、市民への啓蒙活動も大事だとするしごく正当な意見が出たが、それは科学の問題というよりは、社会の方にこそ問題があり、必要なのは合理的な判断ができるシステムづくりという意見も出た。また、疑似科学を鵜呑みにしてしまうような頭をつくってしまう現在の教育にこそ問題があるという批判も出た。
個人的に興味をもったのは次のような発言。科学者は、科学はここまでしかわからないということをよく知っている。わかりたいと強く思っていても黒白がつけられないのが科学者だ。ところが、何かわからないことがあるとメディアは、科学者を引っ張り出してきて結論を迫る。メディアが科学者に期待するのは、「まだわからない」という消極的なコメントではなく、「専門家からみてそれは絶対に黒(白)だ」という断定だ。科学というお墨付きを得た上で、さらにサプライズが期待される。そのため科学者は、時に疑似科学者の役を演じさせられてしまう。疑似科学の蔓延には、テレビの影響があるのではないか。ほかにも、背景には科学政策と予算配分のゆがみが生み出した現象、官僚の科学リテラシーが低すぎるのが原因という辛辣な批判も。じつに有意義な鼎談となった。来年発行の『TASC monthly』に掲載を予定している。乞うご期待。
2006年10月13日
有機栽培の植物工場が……
朝の犬の散歩。野川の対岸で文理シナジー学会会長の高辻正基先生にばったり会った。東海大学退官後悠々じてきの生活を送っているとか。今日は朝の散歩らしい。あまりに暇なので、植物工場の経営を始めましたよ、って、いかにも先生らしいことをおっしゃる。従来の植物工場に有機栽培を合体させることに成功。これで、今までネックだった「美味しさ」もクリア、いよいよ本格的な植物工場の時代がきそうだよ、とうれしそう。僕は、中心市街地の中心部に植物工場をつくつてほしいと思っている。空き店舗を利用した植物工場付八百屋さん。ほんとの産直。もっとも今はまだコストがかかりすぎる。需要が増えればそれも夢でなくなる日も近い。なにせ、安全・安心の理想のような野菜ができるのが植物工場なのだから。高辻先生もぜひがんばってくださいね。
Posted by mirouuru at
23:00
2006年09月21日
ちまたにはびこる「にせ科学』への軽い一撃
『 city&life』82号の「〈素顔のまま〉でまちづくり」の取材に関して社内でミーティング。実際に現場に行って肌で感じることは大事だけれど、10月は『談』の編集の追い込みで物理的に非常に厳しい。一応、山形県金山、新潟県村上、秋田県角館といくつか絞って行こうと思っているが、本当にいけるのか心配。
朝日新聞の夕刊に大阪大学の菊池誠教授が『科学批評室」で「にせ科学」についての文章を寄せている。これは面白い。「マイナスイオン」、『水からの伝言」、『波動」、『フリーエネルギー」「血液型性格判断」とか、今、ちまたでは「にせ科学』流行だ。こうした状況への軽いジャブ。こういうのはどんどんやってほしい。「『TASC monthly』で予定している座談会の資料になりそう。
2006年09月07日
科学と疑似科学、ホントらしいのはどっち?
エスタシオン・カフェでTASCの新留さんと一緒に帝京大学経済学部助教授・小島寛之さんと打ち合わせ。『TASC Monthly』掲載予定の座談会について。「科学と疑似科学どっちがホントっぽい? …科学的正しさの機能不全」というテーマでやろうと思っている。人選を含めてご相談する。ハードなテーマだけど、楽しくざっくばらんに語り合っていただきたい。うまくいくときっと面白いものになると思う。ぼく自身じつは半分はオカルティストなので、このテーマけっこう切実だったりする。
2006年08月08日
今言ったことを反古にしても、それはゆらぎがそうさせているから。
談』no.77に掲載を予定している東京大学薬学系研究科講師・池谷裕二さんをインタビュー。池谷さんは、35才の若さで本年度日本神経科学学会奨励賞と日本薬理学会奨励賞をダブル受賞した若手科学者のホープだ。ご専門は脳の可塑性の研究。今回は、「時間(とき)は脳の中でどう刻まれているのか……生命、複雑性、記憶」というテーマでお話を伺った。
開口一番、「脳は何をやっていると思いますか。じつは脳がやっていることは予測と適応。それだけしかやってないんですよ」とおっしゃった。なぜ予測をするかというと来るべく未来のためであって、それが記憶というものを生んだというのだ。われわれはくちをあんぐり開けて聞き入った。いきなりのサプライズである。
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2006年06月03日
暗箱自がシャッターを切る、写真家の消滅した写真
自転車で仙川の「東京アートミュージアム」へ。
「二つの山」展 の畠山直哉さんの展覧会の初日。オープニングを記念して畠山直哉さんと翻訳家の管啓次郎さんのアーティスト・トークがあるというので、田井中麻都佳さんと会場で待ち合わせをする。いつも畠山さんの展覧会では不意打ちに似た衝撃を受ける。テーマがなんでありその対象にどうアプローチしたか、あらかじめご本人からうかがっていても、いざ会場で作品と対面すると、決まってガツーンとくる。これはいったいなんなんだ、これまで見たことのないもの? 見たことのない風景? 確かにそういうものもある。しかし、日常見なれたものや風景であっても、なんなんだこれは! と頭をぶん殴られたような衝撃をうけるのである。しかし、それでもマットに沈むようなことはなかったのに、今回の山の写真は違った。軽く100回ぐらい殴られた感じ。ほとんどKO負け状態。アルプスの写真である。スイス・ユングフラウ地方にロケーションして撮り下ろされた山岳写真である。写っているのは山。本物は見ていなくても、絵はがきや印刷物、TVなどで一度は目にしたことのあるありふれたアルプスの風景。しかし、そこに現出していたものは、強度とピュイサンスを孕んだ驚くべき写像であった。
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2006年03月25日
行為/環境の関係を読み解く画期的事典の登場。
東京大学大学院情報環・教育研究科教授・佐々木正人さんから「動くあかちゃん事典」(DVD2枚組)を贈呈いただきました。植物図鑑や動物図鑑はありますが、あかちゃん(3才までの乳児)の行為を、その姿、発達の様子、あかちゃんの行為が行われる周囲のものや場所を動画で記録し検索できる図鑑というのはおそらく世界初の試みでしょう。のべ150時間にもおよぶ映像記録から、行為と環境の意味が見てとれる様子を抜き出し、約900のキーワードからアプローチできるというもの。たとえば、「移動」を選択すると179件の動画がヒットします。年齢の若い順に移動の発達が示されます。しかも画期的なのは、キーワードや年齢、あかちゃん名(2人のモデル)などをAND検索すると動画がしぼられて、その選択された動画が自前の映像として「連続再生」できることです。見てみたい行為や場面だけをつなげた発達のドキュメンタリーをつくりだせるというわけです。リリースによれば、「私たちは行為とともに、行為を可能にしている環境の意味(アフォーダンス)にも興味をもって抽出しました。たとえば、移動に段差をかけ合わせると、移動が段差という環境とどのように関係しているのか、移動の発達が段差とどのように関連したのかつぶさに観察できます」。
まだ、一部に配布されただけですが、現在出版を検討中とのこと。この面白さを一部のひとだけのものにしておくのはもったいない。ぜひとも早く市販化してほしいものです。アフォーダンスはわからない、とよく耳にします。活字では伝わりにくい「アフォード」するという意味も、「動く」とよくわかります。この事典がきっかけとなって、アフォーダンスや認知心理学の研究がよりいっそう深まることを期待します。
2006年03月04日
「〈en」〉は〈縁〉なり」は本当だ
東大赤門でOさんと待ち合わせ。教育学部の金森修さんと面会。「en」への寄稿のお願い。バックナンバーの小松美彦さんの記事を見ると笑いながら、「彼と飲むと大変なんだよ」とおっしゃった。小松さんとは古くからのお知り合いで、よく連れ立って飲みにいかれるとは聞いていたが、「大変」(?)だとは知らなかった。もちろん余計な詮索はしませんからご安心を。それにしても金森さんは、小泉義之さんと高校の同窓だったり、僕と同い年だったりと、何かと近しい関係にある。「縁」を感じるので、今度は何か連載でもお願いしてみようかな。
2006年03月03日
ミクロクリマのエンジニアリング
うちで制作しているあるメーカー系のPR誌のブレスト。「天気」が面白いという話になった。気象と気候は違うのか。気象は大気現象それ自体が対象だが、気候は人間が関与する現象も対象となる。かつてはそうした区分けが必要だったのだろうが、今はむしろ両者の融合が望まれる。気象の総合化が重要なのだろう。僕は、ミクロクリマ(微小気候/葡萄畑)、テロワール(風土)のエンジニアリングの時代なのだと思っている。
そういえば、玉村豊男さんからこんな話を聞いた。
「最近はワインの世界ではこの山じゃなくて、この葉っぱの列のここがミクロクリマだというようになってきてるんですよ。カリフォルニアなんかだとそういうことをコンピュータで全部計測する会社があるんですよね。そこが請け負っていて、お宅の何列目のここら辺が一番湿度が高くなっているからと知らせてくれると、そこだけ消毒する。そうすると全体をしなくて済むので率がいいと。消毒も減るし、コストも減るということで、全部センサを張り巡らして、警告を発する会社があるんですよ。契約料は高いんだけど、でも得をするんだって。それでお宅の何の畑のここら辺が今湿度が急に高くなってるから消毒したほうがいいよとか教えてくれるんですね。本当のミクロクリマですよね」
これをミクロクりマの工学といわずしてなんといおう。驚くべき時代だ。
2006年02月05日
生物のかたちは外からやってくる
生理学が解剖学にとってかわる。それがクロード・ベルナールの衝撃によるものだったと書いた。ベルナールが『実験医学序説』を著わしたのは1865年。それから遡ること65年、1800年に解剖学者・生理学者ビシャが『生と死に関する生理学研究』において興味深い言葉を残していたことを知った。ビシャは次のように記していたという。〈生命〉は二つのものに分けられる。一つは、〈有機的生命(vie organique)〉と呼ばれるものであり、もう一つは〈動物的生命(vie animale)〉と呼ばれるものである。前者は、消化や血液循環など、いわば身体の内側で繰り広げられる生命活動であり、それゆえ「内的生命(vie interne)」とも呼ばれる。その中心的器官は「心臓」であり「肺」である。後者は、外界からさまざまな刺激を受容し、またこれらをもとに外界に働きかける生命であるがゆえに「外的生命(vie externe)」とも呼ばれる。その中心となるのは「脳」である(市野川容孝)。脳死臨調の際に「脳死をもって死とする」のがデカルト以来の西洋近代医学のシェーマとされたが、このビシャの説をとる限り、理解はまったく逆になる。人間における「死」の判定は、動物的生命である脳にではなく、有機的生命である心臓や肺の方にあるからだ。ここで一つの仮説を思いついた。生理学によって解剖学・形態学はなぜ敗北を宣言されたのか。それは、形態というものが生物の内から出てきたものではなく、あくまでも外部から与えられたものと解釈されたからではないか。生物の形は、生物に内在する遺伝情報によって決定するのではなく、外からやってくるものによって形成される。それはなんだかわからない。が、その決定因子が生物自身にはないことだけは確かだ。その意味では、表現系という言葉より表象系という方がふさわしい。そのことによって、生物学としては生理学と比較して常に二流に甘んじる結果になったのだ。しかし、だとしたら、ここでいう形態論は、環境決定論、さらには生態学のほんの手前まできているとはいえないか。解剖学・形態学を生態学として読み直すこと。なんとスリリングなアイデア、と勝手に思ってワクワクしているぼくでした。
2006年02月02日
循環するシステムってどんなもの?
東京大学大学院新領域創成科学研究科環境学系助教授・清家剛さんにインタビュー(インタビュアーは斎藤さん)。サステナブル建築の普及を目的に、国交省が主導するかたちで2001年にスタートした環境性能評価システム「CASBEE」が実用段階に入ったといわれる。実際にCASBEE評価を取り入れることで、集合住宅、戸建て住宅はどのように変わるのか。また、まちづくりにどんな変化を与えるのか、CASBEE評価方法づくりに関わっておられる清家さんに直接お聞きした。省エネ対応だけでなく、省資源化まで考慮に入れてトータルな指標を示すとなると、現実的にはなかなか難しいらしい。が、逆に言うとこのトータル(総合的)というところが重要で、ハードルは高いが乗り越えていく意味は大きい。興味深かったのは、リサイクル材の活用のための技術開発を、もっと強力に推し進めていく必要があるという指摘だ。リサイクルは個別で解決するものではなく、業界全体、さらには社会全体の合意のもとで、総合的に進めていかないと意味がない。リサイクルを本気でやろうとすれば、これまでのスタンダードであった工業型の生産技術そのものを組み替えていく必要があるのだ。たとえば、ガラスや鉄骨のリサイクルをしようとすれば、工場生産のライン全体を根本からつくり替えなければならない。大雑把に言えば、コスト削減と性能重視でずっとひた走ってきた生産技術それ自体を組み替える必要があるということだ。言い換えれば、科学技術そのものパラダイム変換が求められるということである。サステナブル社会に向けて、デザインモデルを従来の科学から借用して何かできそうだと思っておられる専門家は少なくない。しかし、たとえば循環系にしろ代謝系にしろ、本質論に立ち返れば、従来のエンジニしアリングを少しばかり変えたぐらいではダメだということだ。循環とは単純にスタートとゴールのあるリニアなシステムではない。リニアではないシステム? そんなもの、まだわれわれは目にしてすらいないということに気付くべきだ。
2006年02月01日
クロード・ベルナールの逆転ホームラン
クロード・ベルナールの『実験医学序説』の登場によって、それまで生理学に対して優位を保っていた解剖学が、一発逆転負けに転じる。そしてその150年間、解剖学は生物学に敗北し続けるのである。この指摘はとても示唆的だ。すなわち、形態学の生物学からの退席を意味することになるからである。形態学の復興を望む者としては、生理学の負の部分をあぶり出すことから始める必要がありそうだ。
「en」 最新号の遠藤秀紀さんの発言より。(ぼくがインタビューしてます)。
2005年12月06日
遺体を集め尽くす
犬山の京都大学霊長類研究所へ。遠藤秀紀教授にインタビュー。遠藤さんは、上野動物園のジャイアントパンダ、カンカン・ランランの二代目として人気を博したフェイフェイを解剖した遺体科学者だ。遠藤さんの提唱する遺体科学についてたっぷり2時間半お聞きした。詳しくは、「en」06年1月発行の新年号をお読みいただきたいが、ここではひとつだけネタを。遠藤さん、著書『パンダの死体はよみがえる』で、「遺体科学の日常は、無目的、無制限、非プロジェクトとして遺体を収集することに力を尽くす」ことだと言っている。つまり、動物の遺体という遺体をすべてもれなく一切合切、とにかく集めてしまおう、というのだ。そして、それらをすべて3次元データ化する。実際の現物と情報データが組合わさった生き物の百科全書的博物館。そのためには、巨大な収集物(遺体資料)の保管場所を確保する必要がある。おそらく、東京ドームが数個は必要になるかもしれない。これって、まさにネットワーク・ソリューションにおけるストレージ技術の発想と同じではないか。資料の収集において取捨選択をやめること。モノとコトとキゴウはすべてがあるということではじめてメタな視点に立てるのである。
パンダの死体はよみがえる
2005年12月01日
遺体科学普及の一助となれば…
「遺体科学」を提唱されておられる京都大学霊長類研究所教授・遠藤秀紀さんからtel。今、東京の国立科学博物館の別館に来ている。「今日ならあえるよ」という。「en」担当者のOさんと待ち合わせて、大久保にある国立科学博物館の別館へ。遠藤さんは今年の1月までここに勤めておられた。どうぞと研究室に案内される。「en」の概要をOさんがざっと説明。僕の方から「遺体科学」についてと今後の研究課題について3回に分けて掲載したい旨を伝える。遠藤さんは非常にまじめな方だった。そして、なにより情熱家だ。来週の火曜日に犬山におうかがいして正式なインタビューをお願いすることにした。原稿の作成を3回にわける場合もありうるというと、自分は過去に12回の連載もまとめて書いてしまった。できれば、1回でチェックさせてほしいと希望。おっと、これはすごいプレッシャー。インタビューの相手からこういわれたらやらざるを得ないだろう。資料室を見せていただく。それほど大きくないスペースに動物標本がところ狭しと保存されている。骨の資料は、ふつう部位ごとにすべて解体されて保存されるのが一般的で、いわゆる成体になっているものは、ほとんど展示用なのだということも始めて知った。スミソニアンほどとはいわないまでも、せめて今より広いスペースがほしいと。日本の文化行政のお寒い現状をかいま見た感じ。
2005年11月12日
ルネサッサンス・ジェネレーション'05はカタストロフィがテーマ
「ルネサッサンス・ジェネレーション'05」へ。気が付けば今回ではや9年目。いよいよ来年で終了だ。開演を待っていたら、Y社のH井さんから声をかけられた。2年ぶりである。セクションが変わって現場におられるとのこと。去年は、オランダ、フランスに取材旅行中でこれなかったというと、彼はあれから毎年参加しているとのこと。あれとは、4年前に、会場の下條先生を訪ねた時のこと。Y社が始めるEIフォーラムのメンバーのお一人としてぼくが下條さんを推薦したからである。定刻通りシンポが始まる。毎回満席だが、今回も空席はほとんどない状態。いつもは若い聴衆が目立つのだが、今回は比較的年代の高い層もいるようだ。各年代層にわたって女性も多い。
今回のテーマは「カタストロフィ:破断点」。近年たて続きに現代社会を襲っている突発的な事故や災害に対して、われわれのこころや身体はどのような影響うけているか、また、そうした事象はほんとうに予測不可能なものなのか。ルネ・トムのカタストロフィ理論を参照しながら、環境工学、生命科学、システム論、脳理論といった諸領域からこの問題にアプローチする。
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2005年11月05日
驚愕の技術、ブレイン・マシン・インタフェイスとは
NHKスペシャル「立花隆 最前線報告 サイボーグ技術が人類を変える」を見る。神経工学の急速な発達がこれまでSFの世界の話だと思われていたことを現実化しつつある。たとえば、両手を失った男性が人工の腕を手に入れて動かし、また、完全に視力を失った男性が人工の眼で光をえることができるようになる。いわゆる身体の一部を機械が代替するサイボーグ技術は、それでもそのうちできるだろうとは思っていたからそんなには驚かなかった。それよりなによりびっくりしたのは、脳と機械を直接つなぐシステム・サイボーグの技術だ。パーキンソン病で苦しむ患者さんの脳(運動を司る領野)に直接電極をさす。そして、それを読み取り、コントロールすることによって、薬でも治療困難だった病気があっさり治ってしまったのである。
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2005年09月15日
「外の生理学」とは何か
生態学者の遠藤彰さんが注目している「外の生理学」というのは確かに興味深いアイデアだ。遠藤さんはこう言っている。「ニューヨーク州立大学のJ・スコット・ターナーのThe Extended Organism,2000(拡張された生物体)という動物の建築物を扱った「外の生理学」のアプローチは意欲的な試みだと思います。古い生物社会有機体とまったく異なった、有機的連関性が生物体の外へどのように物とエネルギーの回路としてつながっているかという視点です。(…)遺伝子作用の限界を見据えることになるはずで、漠然とした「外部環境」と言い方では汲みつくせていないところを、生理学ですから、個体の生理の論理によって取り上げる。つまり「生きている」生物体の存立の外部基盤をおさえる話です」。この文脈から、ユクスキュルの「Umwelt=環境世界」の意味を考え直すと、ユクスキュルの見ていた環境は、われわれが現在みている外部世界とは、かなりちがったものではなかったかという想像が湧く。生理としての環境。川上紳一さんも注目している「外の生理学」、ちょっとつっこんで考えてみる必要があるかもしれませんね。
「外の生理学」とは何か
生態学者の遠藤彰さんが注目している「外の生理学」というのは確かに興味深いアイデアだ。遠藤さんはこう言っている。「ニューヨーク州立大学のJ・スコット・ターナーのThe Extended Organism,2000(拡張された生物体)という動物の建築物を扱った「外の生理学」のアプローチは意欲的な試みだと思います。古い生物社会有機体とまったく異なった、有機的連関性が生物体の外へどのように物とエネルギーの回路としてつながっているかという視点です。(…)遺伝子作用の限界を見据えることになるはずで、漠然とした「外部環境」と言い方では汲みつくせていないところを、生理学ですから、個体の生理の論理によって取り上げる。つまり「生きている」生物体の存立の外部基盤をおさえる話です」。この文脈から、ユクスキュルの「Umwelt=環境世界」の意味を考え直すと、ユクスキュルの見ていた環境は、われわれが現在みている外部世界とは、かなりちがったものではなかったかという想像が湧く。生理としての環境。川上紳一さんも注目している「外の生理学」、ちょっとつっこんで考えてみる必要があるかもしれませんね。
2005年09月10日
樹齢7000年のスローライフ
本当にスローライフやロハスを実践するなら、メタセコイヤや縄文杉になることをおすすめします。かれらのなが〜い人生(木生?)からみれば、ぼくらの一生などほんのまばたき一回分にすぎません。一粒のごはんを1000日かけて食べるくらいの覚悟がなくっちゃね。
ましてや、46億年の地球の歴史でいえば、人類の歴史自体が、瞬間のさらに瞬間のさらに瞬間ぐらい。とりあえず、スローライフは巨人族(植物さんたち)から学びましょう。B y稲垣足穂。
2005年09月08日
縞々学は「全球凍結仮説」を実証するか
岐阜大学へ。縞々学を提唱している川上紳一さんのインタビュー。縞々学とは、地層の縞から気象、海洋、天体の運動など地球とそれをとりまく宇宙の関係を探る新しい地球惑星科学だ。近著『全地球凍結』をまとめるとこうなる。「赤道地帯を含めた7億年前の地層から氷河堆積物とそれを覆う縞状炭酸塩岩と鉄鉱床の体積が発見された。この謎に挑んだのが「全球凍結仮説」で、地球は、過去にまるごと凍り付く急激な寒冷化と超温室状態を経験し、それが本来あり得ない地層を生んだという。地層に表れた縞模様から地球の歴史を探る縞々学は、この前代未聞の「全球凍結仮説」を裏付けるいくつかの状況証拠を用意する。また、気候変動のメカニズムや生物進化の解明にも縞々学は寄与しようとする」。要するに、地質学、気候学、生物学といった隣接諸科学を結び付ける縞々学は、現代における「具体の科学」(レヴィ=ストロース)なのだ。そこで、この魅力的な仮説「全球凍結仮説」と縞々学の関係をじっくり聞こうというのが今回の目的である。で、どうだったかって? それは「en」の10月号に掲載されますので、どうぞお楽しみに。
全地球凍結
縞々学は「全球凍結仮説」を実証するか
岐阜大学へ。縞々学を提唱している川上紳一さんのインタビュー。縞々学とは、地層の縞から気象、海洋、天体の運動など地球とそれをとりまく宇宙の関係を探る新しい地球惑星科学だ。近著『全地球凍結』をまとめるとこうなる。「赤道地帯を含めた7億年前の地層から氷河堆積物とそれを覆う縞状炭酸塩岩と鉄鉱床の体積が発見された。この謎に挑んだのが「全球凍結仮説」で、地球は、過去にまるごと凍り付く急激な寒冷化と超温室状態を経験し、それが本来あり得ない地層を生んだという。地層に表れた縞模様から地球の歴史を探る縞々学は、この前代未聞の「全球凍結仮説」を裏付けるいくつかの状況証拠を用意する。また、気候変動のメカニズムや生物進化の解明にも縞々学は寄与しようとする」。要するに、地質学、気候学、生物学といった隣接諸科学を結び付ける縞々学は、現代における「具体の科学」(レヴィ=ストロース)なのだ。そこで、この魅力的な仮説「全球凍結仮説」と縞々学の関係をじっくり聞こうというのが今回の目的である。で、どうだったかって? それは「en」の10月号に掲載されますので、どうぞお楽しみに。
全地球凍結
2005年09月06日
「最新号」アップしました
『談』no.74「ゾーエーの生命論」を正式にアップしました。メニューバーの「最新号」をCLICKしてください。
ビオス/ゾーエーの農業論だって!?
ビオスは個体性をもった生物体でバイオロジーの原型。そのビオスの奥に、個体性を越えた抽象的な生命、ゾーエーがある。私たちの存在はこの二つが結合したもの。としたうえで、一挙に日本の農業の抱える問題に切り込んでいくという、スリリングな議論を展開しているBlogを発見。こんな発言をするひとは誰かとおもいきや、やはり中沢新一さんだった!『談』の次号では、生態学をこの視点から考えてみようと思っていたのに。先を越されてしまいましたです〜。→
遺伝子組み換え作物の〈MANDALA〉
2005年08月31日
熊手の階層進化
「今まで、物理や化学で捉えてきた階層は、一つの階段を一本道で登っていくというイメージでした。しかし、生物の場合はそうではなくて、生物の段階に入ったところから階層がパーっと複数に重なってくるのです。たとえば熊手のように、幾つもの構造や機能の階層がそれぞれに並行に階層を作っていて、それを横から全部重ねて見るので、生物は捉えようもなく複雑なものに見えてしまう。この熊手のイメージを、もっとみんなに判ってほしいと思っています」。
団まりなさんのインタビュー(
「en」9月号 )より。
われわれの思考は、ちょっと油断をするとすぐにリニアー(単線的)になろうとする。思惟の経済(効率化)が働いているからだろうか。しかし、思考はその端緒から、つまり個体の誕生期から拡大、増加、複雑化へ向かって走り続けることを運命づけられていたのだ。今見えている事象のすぐ裏側には、たくさんの姿を見せない事象が、それこそ無数に存在しているかもしれない。生きものの思考、階層、進化を、試みにヒュー・エベレットの「パラレルワールド論」と対比法的に考えてみる。団さんのいう熊手というイメージがあまりに的を射ていることに驚くだろう。