2008年06月20日

広告は出すものではなく、してもらうもの。

本日の「エンタメ・ビジネス論」のゲストは、ナムコの齋藤未来さん。時間ピッタリにくる。PPで、プレゼン。もともと大学時代にナムコ・ワンダーエッグで週5日アルバイトをしていたとのこと。96年に入社して、「ナンジャタウン」から、「自由が丘スイーツフォレスト」の企画と運営、フード・テーマパークという業態をヒットさせた女性だ。投資が限られているので、基本的には宣伝はしない。マスコミで露出しているのは、すべてパブリシティとのこと。今回うかがって一番凄いと思ったことがこれ。広告は出すものではなく、してもらうもの。話題はつくってもらうものであり、膨らませてもらうものなのだ。1時間のプレゼン、1時間のディスカッション。時間配分も抜群だった。  
Posted by mirouuru at 23:28Comments(0)TrackBack(0)

2008年06月17日

25年ぶりの「路上観察学」とゲ二ウス・ロキの現在

『city&life』の企画委員会。日端さん林さん陣内さん揃い踏み。林さんは、エグザイルのようなサングラスで登場、サムイ姿に雪駄で現われたり、ジーンズ履いてきたり、見たことのない電子手帳もってきたり、いつも驚かせてくれる。さて、会議は、いつも以上に三人三様のご意見が飛び出す。委員のお一人のくちからは、拒食症のギャルという言葉が飛び出す。巨食のギャル曽根のことだった。かと思うとケータイでまち歩きをしながら服を買うという女の子がいるという情報。たぶん、代々木体育館のガールズコレクションのことだと思う。三人三様の意味をかみ締める。企画委員会は、ある意味勉強になる。企画案は承認。25年目の「路上観察」とゲニウス・ロキ。それって、どんな企画?  
Posted by mirouuru at 23:27Comments(0)TrackBack(0)

2008年06月01日

ポスト消費社会は、ほんとうはヤバい時代の到来

久米さんの「新日本人」を見る。お金を使わずせっせと貯金する20代の特集。クルマ買わない、酒飲まない、海外旅行しない、でもおカネはためるというのが今時の20代。小・中・高の時に、株価はうなぎ登りに上昇していったバブル世代、反対に小・中・高の時に、株価が下落し続けた新日本人。好況と不況という正反対の社会で育った若者は、消費行動においても全く異なる。消費は美徳とはやし立てられ躍らされたのがいいはずはない。が、消費そのものに意欲がないとなると経済そのものが収縮してしまう。人口縮小と消費の減衰、じつはそうとうヤバイ時代の始まりなのかもしれない。  
Posted by mirouuru at 23:33Comments(3)TrackBack(0)

2008年05月30日

賑わってなんぼの世界、だからまちづくりはおもろいのだ

今日のエンタメ・ビジネス論のゲストはプロデューサーの北山孝雄さん。商業施設のプランニングを中心にまちづくり、生活プロデュースをする北山創造研究所の代表だ。『新建築』の副編集長さんも聴講しにくる。講義は北山さんの生い立ちから始まった。これが面白い。北山さんは、じつは建築家安藤忠雄さんの双子の弟さん。安藤さんがボクサーだったことは有名だが、青年時代、北山さんもボクシングジムに所属していた。「兄貴はいつもマネするんや」と。一度二人が戦うという話もあったらしいが、そっくりなのでどっちが勝ったかわからなくなるというのでこの話しはご破算になったという。
実家が事業に失敗し、中学3年からグラフィックデザイナーとして働き出す(じつは日宣美で3回も受賞しているのだ)。クライアントに恵まれて、それから25歳まで、むちゃくちゃに稼いだと笑う。初任給が1万円の時代に1月100万円もらっていたとか。つまり、そういうクライアントだったのだ。しかし、こんなことばかりしていてはあかんと思い、商売をプロデュースする今の職業を始めるようになったという。
北山さんが手がけたプロジェクト、誰もが一度は訪れたことがあるはずだ。ぼくも見たり、買ったり、遊んだりした。中でも気に入っているのは、徳島/東船場ボードウォーク、なんば/南海カーニバルモール、道頓堀/極楽商店街(一番好きなフードテーマパーク!),亀戸サンストリート。まちは賑わってなんぼの世界、どの場所も、まさにそれを実感させてくれる。
いろいろ書けない話もしてくれた。北山さんがつくったビルがきっかけで、一躍ファッションストリートとなるある場所は、謀業界では知らぬものはいないという大物が所有していた土地だったこと。また、東京のウォーターフロントのかなりの部分はやはりあっち方面のおえらいさんが牛耳っているという話し、そして彼らと対等に渡り合ってきたという武勇伝などなど。やはり、不動産や土地取引には、大と名のつく人たちの姿が見え隠れする。こういう話は、めちゃおもろい。血湧き肉躍る的な世界がくり拡げられるわけで、へたな小説を読むよりもよほど面白いからだ。
というわけで、まちは、いろんな欲望がひしめき合いながら、とぐろを巻いている世界。なにはともあれ、それで面白いまちができて賑わいが生まれればそれで正解、といういさぎよさが、ぼくにはたまらなく魅力的に見えた。雑誌編集より、まちの編集(プロデュース)。ぼくも、そっちに鞍替えしようか、なんて、ぜったいに無理だと思いつつも夢想するのでありました。  
Posted by mirouuru at 23:47Comments(0)TrackBack(0)

2008年05月18日

国の中にテーマパーク、ではなくて国そのものをテーマパークに。

世界最大の空港、世界最大の人工島、怒涛のようにオイルマネーが降り注ぎ、それを元手にあらゆる分野で世界一を目指す中東ドバイ。極めつけは、高さ800メートル、160階建て、世界最高の高さを誇る超高層ビル・ブルジュドバイ。2009年中の完成を目指して、今建設が24時間体制で進んでいる。ドバイ政府は、ブルジュドバイをピラミッド以来のアラブ社会の権威の象徴と位置づけている。世界の建設現場からクレーンを根こそぎ奪い、バングラデシュやパキスタンから母国の数倍の給料で労働者をかき集めるドバイ。世界が不況に苦しむ中、ドバイに群がる人々の欲望が沸騰する(NHKのHPより)。
ドバイはスゲーッといろんな人から聞いていたが、NHKスペシャルで見て、ほんとうに驚いた。海をパームツリー型に埋め立てた(上空から見下ろすとヤシの木の型になっている)人工島で驚いていたら、そのとなりに今建設中の人工島はなんと世界地図の型になっている。で、「ザ・ワールド」だって。ところが、今度さらにその奥に宇宙の星座を模した「ザ・ユニバース」を建設すると発表。砂漠にスキー場をつくり、世界最大のショッピングモールをつくり、もうすぐ全自動のメトロが砂漠を走り出す。どうやら、ドバイは国まるごとテーマパークにしようとしているらしい。  
Posted by mirouuru at 23:09Comments(2)TrackBack(0)

2008年05月14日

渡辺靖さんにアメリカとたばこの関係をお聞きする。

 ご自宅のある鎌倉で慶応大学大学院教授・渡辺靖さんのインタビュー。駅の向かい側のcaf?&restaurantへ。ここでインタビュー。最初、入っていいものか思わず尋ねてしまうほど、ひとっこひとりいなかった。そのうち、どんどんお客がやってきて、またたくまに満員。しかもうるさい。こうした条件の中でアメリカの中のたばこ、複雑な価値観が交錯する国アメリカについてお聞きする。『TASC montly』8月号に掲載予定。

 

  
Posted by mirouuru at 23:29Comments(0)TrackBack(0)

2008年04月15日

地産地消は、生産-販売-消費の循環システムで決まる

昨日案内された地産地消に特化したJA農産物直販センター「さいさいきて屋」へ。やはりモノは揃っている。まず店長さんにご挨拶。撮影開始。体育館ほどのスペース全部を使って中央に平場、周囲に商品棚、冷ケース、キッチンヤードが並ぶ(コミケの会場みたい?!)。平場には豊富な野菜類。品物が減ってくると、いつの間にか農家の人がやって来て、品物を補充していく。でっかい筍、つくしや山菜なども充実している。バックヤードにそなえつけられているPCで品物の販売状態を確認、そのデータに基づいて、各農家は追加するかどうかを決める。POSを利用し、新しくシステムを組んだのだ。とにかく、みなさん生き生きしてらっしゃるのがいい。とくに女性が元気なのもうれしい。
隣接するカフェに入って、ケーキセットをいただく。でっかいイチゴの乗っかったショートケーキ。後ろに座っているご婦人のテーブルの上には、大きなお皿のサラダ。野菜がどっさりのっている。パリのカフェでは見慣れているが、こんな地方都市で(失礼)でそんなパリの雰囲気が味わえるとは思っても見なかった。
JAらしからぬ、なんて言うと怒られそうだけど、とにかくおしゃれなのだ。さらにその隣にはレストラン。ここはバイキング形式で、煮魚、焼き魚、煮物、汁物など各人好きなだけ取って食べるしくみ。どれも新鮮な農産物、海産物を使っていていかにも美味そう。生産と販売と消費が完璧にひとつながりになっている。「さいさいきて屋」全体が、まさに地産地消を絵に描いたようなところなのだ。
次に、レストラン「ティア家族のテーブル」へ。ここは地元産の有機産物を中心にしたメニューが数十種類、ビュッフェ形式で楽しめる店。ここがまたすばらしかった。和あり洋あり中華あり。デザートやドリンクすべてが有機生産物。大急ぎで撮影をし料理にありつく。またしてもたっぷりと食べてしまった。カレーにおにぎりを沈めると暴挙にでたりして。
昨日インタビューでお聞きしたところをわずかであるが、実際にこの目で見て味わってわかったこと。繰り返しになるけれど、生産-販売-消費の循環システムがしっかりできていること。そのシステムを支えているのは、生産者と流通、そしてなによりも行政がそのシステムを理解して、はっきりとした舵取りをしているから、その循環がうまく回っているのである。結局のところ、地域再生は、やはり自治体の主導力の有無にかかっているのだなと納得したのだった。  
Posted by mirouuru at 23:33Comments(0)TrackBack(1)

2008年04月03日

システム・ソリューションこそが問題なのだ

東京日仏学院へ。「かつて、ノルマンディーで」を見る。1835年に起きたピエール・リヴィーエールによる父と妹殺人事件を分析したフーコーの研究書『ピエール・リヴィエールの犯罪』発行(1974)の2年後に、ルネ・アリオがこの事件を映画化する。映画は、ノルマンディーに暮らす全くのシロウトによって演じられたという意味で話題となった。その時に助監督をしていたニコラ・フィリベールが、30年後2006年に、同作品に出演した人びとを訪ね歩き、当時の思い出を語ってもらうというドキュメンタリー作品を発表する。それが「かつて、ノルマンディーで」だ。
この映画をテキストに廣瀬純さんが講演を行った。
「「わたしの人生はへたくそにモンタージュされ、へたくそに演じられ、うまくかみ合っていない吹き替え映画のようなもの」とマルグリット・デュラスは言ったが、リヴィエールもまたフーコーに同じことを語りえたのではないか。フーコーが、リヴィエールに見出した「物語=殺人の装置」もまた吹き替え映画をなしている。D=Gは言う。「マルクスが示すのはふたつの"主要な"要素が出会うということだ。一つは、脱領土化された労働者であり、彼は自由で何も持たない労働者となり、自分の労働力を売らなければならない。もう一つは、脱コード化されたカネであり、これは資本となり、労働者の労働力を買う能力を持っている」。ここで問題となっているのは、まさにへたくそにモンタージュされ、うまくかみ合っていないもう一つの吹き替え装置のことである。言い換えれば、二重化された装置のことではないか」。
二重化された装置は、解決不能な問題として問題の出題者へと送り返される。共訳不可能な問題としての問題。もはや、解決(ソリューション)は、最も陳腐で堕落した問題への単なる注釈に過ぎない。われわれは、問題の問題こそ、問いとして生き続けなくてはならないのだ。
物語と殺人、音と映像、労働と資本、「と」によって連結する二つのもの、こと、様態…。この共訳不能な、決定不能な問題こそが、システム=社会の問題の核心である。システム・ソリューションは、じつは問題そのものからの撤退でしかないということを、肝に銘じる必要がある。問題を解決したと思った瞬間、われわれは問題そのものから滑り落ちていくのである。というようなことを講演を聞きながら思ったのでした。  
Posted by mirouuru at 23:29Comments(0)TrackBack(0)

2008年03月14日

まちづくりにも五感やエンタメが加わって……。

1年間続いた研究会の最終回。いつもは司会役だが、今回に限りディスカッションに参加。僕の立ち位置は、思想系ということになるらしいが、その立場から発言をした。プレ議論で座長に提案した第四の軸が加わったので、もっぱらそれを念頭に話に加わる。詳細は述べられないが、3時間にわたるディスカッション、大盛り上がりだった。懇親会では、山下柚実嬢が、五感関係のまちづくりが本格化し、環境庁が予算をつけることになったと教えてくれた。また、篠原菊紀先生からは、パチンコ業界では、ホールとヘルスケアセンターをドッキングさせる構想が持ち上がっていて、なんと国土交通省から予算がついたというサプライズな情報。いったい世の中どうなっているのか。なにはともあれ、面白ことではあるから、僕的には大歓迎。こういうことはどんどん進めて欲しい。  
Posted by mirouuru at 22:00Comments(0)TrackBack(0)

2008年03月03日

人文系のこだわりは、そうでない人には無駄なものに無意味に見えるのかも。

16時より会議。再来週に控えている研究会の打ち合わせ。研究会もいよいよ今度で最後。報告書に向けての最後のディスカッションだ。廣中先生がつくる報告書の構成についてのプレゼンテーション。分析のための切り口を披露される。これがとても面白い。人文系の立場から見るとちょっとあり得ない視点。その新鮮さに驚く。ただ、欲を言うと、人文系の立場では何かもう一つ足りない気がする。それで、3つの切り口に、もう一つ加えてみてはと提案。ところが、それに皆さん引っ掛かってしまった。廣中先生もサポーターの工藤君も、ともに理解してくれたのに。それで、30分あまり議論。この日は、急いで帰宅してやらなければならないことがあったのに、墓穴を掘ってしまった。まぁ、まったく無意味な提案ではなかったので(と自分では思っているけれど)、本ちゃんでちゃんと議論すれば、結果的にいい報告書が書けるはずですから、お許しいただきたい。  
Posted by mirouuru at 23:26Comments(0)TrackBack(0)

2008年02月08日

あの強面として知られる論客も溺愛しているって?!

香山リカさんから『イヌネコにしか心を開けない人たち』(幻冬舎新書)を贈呈していただきました。
ある勉強会のこと。強面として知られる論客たちが集って何やら盛り上がっています。何かと思い、話に加わると、なんとペットの自慢話だったのです。自慢の我が子のプリントを持ち歩いている者、ケータイを差出し、ウチのはどうだと見せびらかす者。ふだんの彼らとのあまりのギャップに驚いた、というところから本書は始まります。
もはやペットなしでは生きられない現代人。なぜいい大人が、恥ずかしげもなく溺愛ぶりをさらしてしまうのでしょうか。家族より大事な「ウチの子」、ケータイの待ち受け画面はもちろん「ウチの子」、許されるなら「ウチの子」と一緒にお墓に入りたい……、このペットへの尋常ならざる愛、いったい日本人はどうなってしまったの? じつは、香山さんもイヌ1匹ネコ5匹と暮らすペット依存者だったのです。自らの経験を交え、空前絶後のペットブームの心理に迫ります。

イヌネコにしか心を開けない人たち (幻冬舎新書 か 1-2)
  
Posted by mirouuru at 18:01Comments(0)TrackBack(0)

2008年02月01日

トランスする身体と痙攣は無関係?!

財団法人喫煙科学研究財団主催、研究集会「喫煙行動研究の新たな可能性を探る」に参加しました。ある研究会でご一緒させていただいている廣中直行先生(科学技術振興機構ERATO下條潜在脳機能プロジェクトグループリーダー)が座長を務めるというので馳せ参じたのです。日頃喫煙に関する研究助成をしている財団ですが、今回廣中先生の意向もあって、研究対象を認知、情動、社会行動へ拡げ、新たなパラダイムを探ろうというものです。そうした主催者側の意気込みもあってか、どの研究発表も意欲的で興味深いものでした。
中でも澤幸祐先生(専修大学文学部心理学科)の「ラットにおける因果推論-新たな研究パラダイムの可能性」、本田学先生(国立精神・神経センター神経研究所)の「生存戦略としての美と快」に感銘をうけました。前者は、ラットにおいてもヒトと同様に「観察と介入の区別」に関する複雑な因果推論を行っている可能性を示唆し、「動物研究の先にあるもの」を模索するもの、また、後者は、脳の報酬系が主導する情動-理性-感性による行動制御のメカニズムを、バリ島社会のフィールドワークを通して脳科学から探ろうというもの。とくに、本田先生は、芸能山城組のメンバーでもあって、バリ島の祭儀に見られるトランスする身体から、生物の生存戦略を読み解いていくという大変刺激的な発表でした。『談』no.77.「〈いのち〉を記録する」にご登場いただいた池谷裕二先生が、今最も会いたい人とおっしゃっているという話を聞いていましたが、なるほどうなづけました。
ところで、80年代の初頭、池袋の西武百貨店にあった「スタジオ200」で、「バリ島の生態学」という4日間にわたる連続シンポジウムを企画したことがありました。その時、芸能山城組に企画と連動してケチャをライブでやってもらいました。ぼくは、その企画の下見でバリ島に行ったのですが、思えばそれが海外旅行初体験。ミュージシャンのYASUKAZUさんや高田みどりさんなどとの道行きは、興奮の連続だったなぁと思い出してみたり。山城組とは、浅からぬ縁があるのです。
その時はさすがに実際に村人がトランス状態になる場面を見ることはできませんでしたが、これがきっかけで陶酔する身体としてのトランスというものへの関心が芽生えたのでした。このトランス、しばしば激しい痙攣を伴いますが、懇親会で直接お話しすることができたので本田先生にうかがったところ、あれはいわゆる癲癇などの痙攣とは、まったく関係のないものなのだそうです。じゃ、あの身体の振動はなんなんだ? じつは、それこそ報酬系のポジティヴ・フィードバック回路と深く関係する身体現象だというのです。う〜む、これは面白い。この話を聞いた瞬間、『談』の特集企画が一つできました。はて、それは…、たぶん、次々号あたりに日の目をみることになるでしょう。  
Posted by mirouuru at 23:00Comments(0)TrackBack(0)

2008年01月23日

80年初頭の東京undergroundシーンについて、誰か書いてくれないかなぁ

夕方、新年の挨拶を兼ねてsound cafe dzumi(吉祥寺)へ。19日に開催された出版記念会に出席したこと(ぼく)、出版記念会を開催したこと(泉さん)を相互に報告し合う。出版営業のYさんが来店して、しばらく雑談をしていたら音楽プロデューサーのUさんが来店。鈴木治行さんをプロデュースしたというので、そのできたてほやほやの音源を聴かせていただく。
もともとこのミュージャンのファンだったという阿木譲さんの名前がでたのがきっかけで、一気に70年代末から80年代初頭にかけて、群雄割拠した東京undergroundシーンの話題に花が咲いた。驚いたのはコクシネルなどの演奏が入ったコンピレーションアルバムをなぜか泉さんがもっていたこと。ぼくもどういうわけか、カセットテープでもっていたりして、何十年ぶりかぐらいで聴く。さらに、泉さん「たこ」のファーストアルバムなんかも出してくるではないか。ついでに、それも聴いてしまった。すっかり忘れていたのだが、このアルバムには、1曲香山リカさんがボーカルで参加している曲がある。「たこ」のリーダー山崎春美さんは、じつは香山リカさんの名付け親。そんな関係で彼女も参加しているのである。細川周平さんが曲の幕間に各国語を使い分けてナレーションやっていたり、坂本龍一が1曲やっていたり、今思うとものすごいアルバムだ。つくづく面白い時代だったなぁと思う。
「天国注射」というイベントがあった。今でいうところの音響派になるのか、パンク、ニューウェーブのミュージャンに交じって、実験的なサウンドを追究していた若者がこのイベントの周辺には沢山いた。この頃のミュージャンを中心に、当時のカルチャーシーンをマップ化してみると面白いと思う。じつは、香山リカさん(まだ学生)が『フールズメイト』誌上でそれをやっていたのだ。思えば、そういう時代の空気を吸いながらぼくは今の仕事をはじめ、なにをかくそうその延長線上で、泉さんとも出会ったのである。思わぬところで、あの時代を思い出すことになった。『遊』『ヘプン』人脈で当時を回顧した文章をかつて読んだことがあるが、今度は、ぜひ音楽人脈でそれを書いて欲しい。  
Posted by mirouuru at 23:33Comments(0)TrackBack(0)

2008年01月18日

『キレる大人はなぜ増えた』と『おとなの男の心理学』

香山リカさんから新刊『キレる大人はなぜ増えた』(朝日新書)を贈呈していただいた。じつは、昨年末にも『おとなの男の心理学』(ベスト新書)を送っていただき、あいかわらず月刊「香山リカ」状態が続いている。
「「すてきな年の重ね方をしている男性」はいそうでいない」「「まだまだ若い」と思っているうちに、本当の意味での「おとなの男」にもなれないまま、自分でいくら目を背けても「老い」や「衰え」が忍び寄って来ている」と、いきなり軽るくジャブをくらわせておいて、結局のところ、いちばん変化に弱いこころの持ち主こそ中年・老年の男性ではないかと、最後はアッパーカットでわれわれ男性陣をマットに沈めるのだ。とはいえ、『おとなの男の心理学』は、それで最後に笑うのは女だ、というわけではもちろんない。香山先生は、そうならないためには、老いを素直に受け入れて、もっと「老いを愉しもう」ではないかと励ましてくれるのである。本当の意味での「おとなの男」になるための秘訣を伝授する。
『キレる大人はなぜ増えた』は、まさにタイトルどおりのキレる中高年が、なぜ増えてきているのかを、こころの側面から解き明かそうというもの。その病理性を分析するだけではなく、むしろ、キレざるをえない、キレなければ生き残れない社会の病理を問題視する。そして、本書も「キレないための処方せん」をわれわれに示してくれる。
キレる大人はなぜ増えた (朝日新書 90)

おとなの男の心理学 (ベスト新書 166)
  
Posted by mirouuru at 23:00Comments(0)TrackBack(0)

2008年01月09日

ケアや援助の実践を肉化するメルロ=ポンティの思想

万博記念公園内にある大阪大学コミュニケーションデザイン・センターへ。准教授で看護学がご専門の西村ユミ先生のインタビュー。「専門家であろうとなかろうと、同じ人間の苦悩である限り、〈病い〉は、私たちを執拗に引き寄せ、押し戻し、その傍らに立ちすくませる。この志向性は、私たち人間が根源的に抱えている〈病むこと〉への態度であり、そして、ともに〈病い〉を形づくることの現れではないか」。ご著著『交流する身体……〈ケア〉を捉えなおす』(NHKブックス)でこう語る西村先生。「共在感覚」という考えをケアという観点から読み返すことによって,身近な問題として捉え直すことができるのではないかと思いインタビューとあいなった。
著書の途中で何度かメルロ=ポンティからの引用がある。てっきり、メルロ=ポンティを読む過程でケアや介護の問題にぶつかったのかと思っていたら、じつは逆。ケアや介護という実践の過程で、メルロ=ポンティと出会ったのだそうだ。自らの実践活動の意味を分析する時に、メルロ=ポンティの身体論が役に立ったのだという。学生時代バタイユに傾倒したぼくは、彼のエロティシズムの問題をやはりメルロ=ポンティの身体論に引きつけて読んだ記憶がある。メルロ=ポンティはけっこう使えるのだ。余談だが、今年はメルロ=ポンティ生誕100年にあたる。今秋立教大学で大きなシンポジウムが予定されているという。再び、ぼくの中でメルロ=ポンティが息を吹き返すかもしれない。
インタビューは、非常にいいものになった。それもこれも西村さんの人柄によるところが大きい。その語り口がとてもチャーミングなのだ。なにより実践家であるところがいい。思想も身体があるかないかが分かれ目である。ところで、西村先生は若い時にハンドボールをやっておられたとのこと。それもゴールキーパー。アスリートだとわかって、なるほどと思った。身体や五感に感心のあるひとは、かなりの頻度でそういう経歴の人が多い。五感研究の山下柚実さんは競技スキーだしオートポイエーシスの河本英夫氏は陸上競技。そして、かくいうぼくも中高とサッカー部だった。いずれ、アスリートの経験をもつ哲学者、思想家の特集をやってみたいと思っている。  
Posted by mirouuru at 23:00Comments(0)TrackBack(0)

2008年01月08日

「共在感覚」とは何か、まず手始めにその命名者をインタビュー。

『談』の次号特集「〈共に在る〉哲学」の取材で京都へ。京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科准教授木村大治先生を訪ねる。ごHPのポートレイトの写真では、無精髭姿でいかにも人類学者然としていたが、本人は普通のやや地味な感じの人。しかし、研究室は普通ではない。畳張りなのだ。机のあるところは掘りごたつ式。アフリカから帰ってくると、やはり日本の生活が恋しくなるのかも知れない。
著作に書かれていた内容に沿ってお話を聞く。たとえば、日本人の常識ではありえないような100mも離れた者同士が大声で口げんかをし、相手を特定することなく発話するボンガンドの人々。このザイール・ボンガンドの文化では、150〜200m以上離れてようやく挨拶を交わす対象となる。そうかと思えば、同時に多数の人々が発話したかと思うと、普通なら気まずくなるような長い沈黙が突然起こるようなカメルーンのバカ・ピグミーの文化もある。彼ら/彼女らは、いつとはなしに静かにやってきてずっと見つめ合ったかと思えば、すうっと静かにいなくなる。自己と他者の関係、それをとりもつ会話や行為。こうしたいわゆるコミュニケーションのあり方自体がことほどさように多様なのだ。アフリカの二つの文化を比較しながら、「共在感覚」をキーワードに、木村先生はコミュニケーションのあり方を捉え直す。先生は、そこで「双対図式」というとてもユニークなアイデアを提案する。今回のインタビューは、まさにその「共在感覚」と「双対図式」の関係をご教示いただこうというものだ。たっぷり2時間、非常に有意義な取材となった。詳しくは、3月発行の『談』をお読み下さい。
ところで、木村先生のHPに、ボンガンドの投擲的発話とバカ・ピグミーの発話重複、沈黙の様子を記録した動画ある。↓がそれ。これは必見!!
共在感覚  
Posted by mirouuru at 23:52Comments(0)TrackBack(0)

2007年12月25日

身体における所有/被所有が曖昧になる瞬間

例の研究会。今回のゲストは鈴木謙介さん。この前は、TASCの公開鼎談に参加してもらい、今回は講演会。カーニヴァル、陶酔、社会システムがキーワード。ぼくは、身体と所有の問題、日常/非日常のアフォードする空間の変容として捉えてみたいと思った。社会の枠組みを空間論として捉えれば、身体は所有されるものに帰結するが、それを時間論で捉え直すと、所有するものイコール身体ということになって、所有/被所有という関係そのものが成り立たなくなる。カーニヴァルとは、まさに身体における所有/被所有が曖昧になる時間性を内在しているのだ。今後突き詰めてみたいところである。  
Posted by mirouuru at 23:00Comments(0)TrackBack(0)

2007年11月29日

新旧の対比があまりに極端な街Lille

ユーラリール・センター内にあるジャン・ヌーベル設計の「Lille Europe」に宿泊した。色とりどりの外壁が印象的なビルディング。ポルザンパルクの異彩を放つリヨン・クレジット・タワー、駅舎をジャン・マリー・ディティルール、全体計画をレム・コールハウスが担当。さながら、現代建築の博覧会場だ。しかし、なんと寒々しいことよ。未来の墓場とかガラクタ品評会とか専門家からもきわめて評判のおよろしくない再開発である。 イギリス、ベルギーに接続するTGV乗換駅にあわせて新設された駅のとなりには既存駅舎のリールフランドル駅がある。その前には、旧市街地が広がっている。こっちは中世の町並みが残るフランスのどこにでもある街。
新旧の対比があまりに極端で、しばし言葉を失ってしまった。博多のネクサスワールドでポルザンパルク、コールハウスの住宅等に出会い感動しすっかり現代建築が好きになってから20年余り。その同じ建築家の作品を見て、寒気すら覚えることになるとは、いったい誰が予想しただろう、って自分でツッコミいれてどうする。とにかく、ぼくは、旧市街地の方がずっと落ち着けたし、こっちの方が親しみを感じたことだけは確かだ。単なる年齢からきた感傷か。いや、そうでもあるまい。都市とはなんだろうか。都市とは誰のものだろうか、改めて問い直したいテーマである。

リヨン・クレジット・タワー:設計ポルザンパルクポルザンパルク  
Posted by mirouuru at 23:58Comments(0)TrackBack(0)

2007年11月28日

「クロワ・ルス」の路地階段空間trabouleを巡る。

昨夜からLyonに滞在中。朝、まず地下鉄でViller baineneへ。地下鉄駅のそばにあるといっていたので、なんとなくはわかっていたのでカンで探すとあった。1830年代につくられた社会住宅。広い道路空間を中央に奥に行政機関の入ったタワー型ビル。その左右にシンメトリーに高層の集合住宅を配置してある。鉄骨の構成主義建築。コンセプトの明確さがデザインの力強さによってみごとに表現されている。グロピウス、ル・コルビュジェと同世代の建築。ロシアフォルマニズム構成主義のマニアには垂涎ものの物件だ。同潤会アパートが保存されることなく取り壊されていく中で、近代建築の保存再生にいち早く乗り出したフランス。日本はまた引き離されてしまった。あとで伺ったところによると、当時から住んでいる人もいるし、今も社会住宅の役割をになっているようだ。もともとbaineneという地域が戦前からコミュニズムの拠点で多数の労働者が居住していたという。スターリン主義デザインと揶揄されもしたが、ぼくは大好きだ。室内が見れなかったのが残念。地下鉄でオペラ座へ。ジャン・ヌーヴェル作の改造建築の代表。リュプブリック通りをギヨティエール橋まで歩きホテルへ。佐伯さんとホテルで待ち合わせ。Gare Part Diewそばの官庁舎へ。文化庁から出向してきている歴史的環境監視建築家ピエール・フランチェスキーさんにインタビュー。「クロワ・ルス」建築的・都市的・景観的文化財保護区の保存再生事業と午前中見てきたViller baineneの再生事業について。フランチェスキーさんはコルシカ島の生まれ、顔立ちもイタリア人ぽい。取材後さっそくタクシーで「クロワ・ルス」のグランド・コット坂へ。ここにはトラブル(traboule/リヨン特有の言い回し)という通り抜け街路がたくさんある。それを取材しようと思ってウンちゃんに尋ねるとやたら詳しいではないか。なんと、彼はかつて絹織物を配達する仕事をしていて、トラブルを実際に使っていたのだ。どこに通り抜け道があるか彼は一目でわかるという。というのも、絹織物を運ぶのは結構な重労働で、一休みするためにそれをぶら下げて休む台座があるからだという。実際に通ってみる。かなり高低差があるので、通り抜け街路といってもほとんどが階段。それがまた独特の雰囲気をつくっている。佐伯さんいわくここはカスバだ。日本の路地マニア、団地マニア、さらには軍艦島マニアは、ぜひ訪れた方がいい場所。夜、TGVでLILLEへ。東京から名古屋へ行って、帰りに東京を通り越して仙台へ行くような3時間の旅行。  
Posted by mirouuru at 23:28Comments(0)TrackBack(0)

2007年11月27日

あらゆる階層の人びとが交じり合って住む集合住宅のプロジェクト

都市計画アトリエ・協議整備区域総括建築家・ピエール・ミッケローニさんのインタビュー。一昨日サーベイしたベルシー地区の再開発とセーヌ左岸リブゴーシュの開発について、計画サイドのご意見を伺った。ベルシー地区は、APURが指導のもとにマスターアーキテクトを置いて、集合住宅と公園、ショッピングモールを複合化させた開発。地域の資産である自然環境を保全しながら、ワイン倉庫のリノベーション、混在型の住宅建設を複合化させながら20年かけて試みられたプロジェクト。都市開発とはオーケストラの演奏だという音楽のメタファで語ってくれたのが印象的だった。ミッケローニさんの話の一つの要だった集合住宅のプロジェクトについて、もう一度きちっと見て、撮影をしようと思い徒歩で再びベルシー公園へ。途中大蔵省の巨大建築とオムニスポーツセンターを横目に進み、フランク・ゲイリーの元アメリカンセンターを見る。鳥海さんは、外壁が汚かったといっていたが、すっかり化粧直しをしてきれいだった。すぐその横から始まる集合住宅。ここは、低所得者、中流家庭、高所得者が混じり合って住む。それだけでもここは必見。オープンスペースと緑地をうまく配置した住環境としても良好。となりには例のショッピングモールのワイン倉庫。そして、Paris中心部まで30分もかからない好立地。これから、まだまだ変わっていく可能性のあるこの場所の将来が楽しみだ。  
Posted by mirouuru at 23:28Comments(0)TrackBack(0)

2007年11月26日

キーワードは「ミキシテ」つまり、混在、混交。

バスティーユ広場の東側ファブール・サン・タントワンヌへ。衰退著しかった職人たちの町を、地場産業を育成しながら保全再生しようというパリのプロジェクト。ここは、昔は解放されていいなかった中庭を歩行空間、公共空間として開放し、通り抜けできるようにした。工場跡をリノベしコンバージョンして、職人たちに低廉で貸すということもやっている。その幾つかを覗いてみた。植生があって、いい空間ができている。古い感じが懐かしさを誘いユトリロの絵から飛び出してきたような風景。
1時間ぐらい見て回り、パリ都市計画アトリエ(APUR)へ。今回最初のインタビュー。調査部長のミッシェル・クグリーエニュさん。来年定年を迎えるいいオジサン。ものすごい早口で、ほとんど切らない。これは通訳泣かせだ。しかし、通訳の佐伯さんと鳥海さんが丁寧に翻訳してくれる。2時間たっぷりお話してくれた。キーワードは「ミキシテ」つまり、混在、混交。『談』のテーマとも共通するコンセブトだ。ぼくも多いに共感する。終了後ベランダに出る。手前にポンピドーセンター、昨日歩いたサクレ・クールが見える。これだけの眺望は周囲にない。ということは、それだけこのビルが邪魔な存在でもあるということだ。都市景観や保存をするParis市の部所のなという皮肉。
サン・タントワンの中庭をもう一度見学。縫製関係の職場の入った工場建築とかおシャレな本屋があったり、修復してうまく使っている。夜は、リヴ・ゴーシュの都市再開発地域の旧圧縮空気工場をリノベした建築家フレデリック・ボレルさんの事務所にいる日本人の若手建築家ヨコオ・ケンタさんをインタビュー。取材の目的とは直接かかわりないが、フランスの建築家の待遇など面白い話が聞けた。それにしても、日本の設計事務所の勤務状況と比較すると、その差にがく然とする。夜7時にはあがって、夏休みが1月以上ある設計事務所(しかも個人の)なんて日本には皆無でしょう。  
Posted by mirouuru at 23:23Comments(0)TrackBack(0)

2007年11月25日

観光客で賑わう街の裏側には、静かな街並みが……

2区のモントルグイユ・サン・ドゥニへ。朝市を見る。ここは屋台式。シャンゼリゼへ。観光客の視点とは違い、ストリートファニチュアや側道の地下駐車場、土地利用プランと景観保全の様子をサーベイする。モンマルトルへ。観光客で賑わうラパンアジル、サクレクール教会、地元住民がひっそりと生活する北東側の住宅地や坂道をサーベイする。今回の目的は、もちろん後者だ。  
Posted by mirouuru at 23:22Comments(0)TrackBack(0)

2007年11月24日

コンバージョン建築が並ぶリヴ・ゴーシュの都市再開発地域

5区のムフタールへ。ここは、下町気風が残っているところ。毎朝朝市が開かれる。しばらくして思い出した。ここは、最初にParisに行った時に訪ねたところだ。市は全体的に縮小した感じだったが、チーズや肉類、魚介類などの食材を扱う店は昔も今も変わらない。ムフタールは、途中から観光客相手の店が多くなる。こうなるとあまり面白くなくなる。
鳥海さんは、じつはここは中庭が面白いと案内しようとするが、ロックがかかっていてなかなか入れない。ようやく引っ越し中で玄関が木戸があいていたところを発見、お願いして入らせてもらう。確かに、商店街の喧騒と打って変わって、静かな空間が現われた。あまりこういう空間は見ることがない。あえて言えば坪庭に似ている。植生が、小さいながらも寛ぎの空間を演出している。鳥海さんとでなければ、こんな場所があるなんて気がつかなかっただろう。感謝、感謝。
次に地下鉄に乗ってジュシューの構想住宅群を見る。近代主義の洗礼をうけて、20階近い高層ビルが建ち並ぶ。「寒々しいでしょう」と鳥海さんは言うけれど、日本のそれと比較したら、はるかにバリエーションに富むし、第一外壁の意匠がそれぞれ個性的で、日本のと一緒にされたら困るだろう。その中で、建築家のポルザンパルクが担当した街路計画が際立っていた。街路側の壁面の連続性。ボリューム的には、かなり重厚。ぼく的には面白かったけれど。
Austerlitzわきからリヴ・ゴーシュの都市再開発地域をサーベイする。ここは現在三期まで再開発が進んでいる。三期目をやはりポルザンパルクが担当。また、旧製粉工場をリノベして大学に転用したもの、旧圧縮空気工場をリノベした建築学校など、コンバージョン建築の秀逸な建築も多い。
地下鉄で対岸のベルシー地区へ。ここは元ワイン倉庫の跡地利用。公園整備がいい。ランドスケープアーキテクトがつくり出す新たな緑地空間。子供たちがはじゃぎまわっている。ワイン倉庫はショッピングモールとして再生。コンパージョンとしては、大成功。今日は土曜だからかか、ものすごい人出だ。バスチーユから続く高架鉄道路線の下を店舗や工房にした修復・再生事業を見る。上は、路線を緑化し公園として再整備。Parisの新しいスポットだ。  
Posted by mirouuru at 23:26Comments(0)TrackBack(0)

2007年11月17日

「attention economy」をどっちのスタンスで理解するか。

「ルネッサンス・ジェネレーション(RG)」に参加しました。今年11回目のテーマは「[情動]ー欲望・操作・自由」。10回で終了する予定だったはずが、1dayセッションとして新たに開催されることになったというわけです。レギュラーの監修者、下條信輔さんとタナカノリユキさんの他に、今年はゲストスピーカーとして、廣中直行さん、十川幸司さん、ビデオ録画によるインタビューとしてクリスチャン・シャイアさん、酒井隆史さんが出席。
この顔ぶれを見て、『談』の読者の方なら、「えっ?!」と思われるのではないでしょうか。そう、no.76の特集「情動回路」とかなりカブっているのです。出演者からそれとなく聞いたところでは、実際に企画の段階で、『談』の特集にインスパイヤーされたとか。それにしても、一種のサプライズとして紹介された酒井さんのビデオレクチャー。『談』が出てなかったら、このインタビューもなかったのではとちょっと思ってしまいました。情動がなぜ権力や労働、資本主義と関係するのか、それは、no.76の肝でしたが、今回のシンポでもやはりひとつの論点になっていました。
そもそも下條信輔さんはno.64で、廣中直行さんは、no.66、no.70でインタビューや対談に参加してもらっていますし、その後も某企業が主催する研究会に参加をお願いしたりして、お二人とは懇意にさせていいただいてます。情動というテーマ自体が、その研究会の中心課題でした。そんなわけで、今回のRGは、いつにもまして楽しみにしていたのです。
さて、内容はどうだったか。一言で言うと、例年通り下條先生のかじ取りでみごとな盛り上がりを見せたのですが、肝心の「情動」そのものに迫りきれたかというと、やや消化不良かな、というのが正直な感想。
最もそれを感じたのが、論点ともなった「attention economy」について。潜在的マーケティングを実践するシャイアは、無意識のレベルで働く情動を解明することから「attention economy」の可能性を探求しますが、むしろ消費者はそれを裏切り続けるのが実態だと解く。それに対して、酒井氏は、情動に直接関与する「attention economy」のもつ危険性を示唆する。両者は、同じことを問題にしながら、結論がまったく逆なのはなぜだろうか、という形で問題提起がなされ、この違いはかなり重要だと指摘されました。しかし、この理由はあまりにもはっきりしているのではないでしょうか。シャイアにはクライアントがいるけれど、酒井さんにいない。ただその違いだけです。要するに、情動を資本の中に組み込みたいのか、逆にそれに抗いたいのか。単なる社会学に終始するのか、そうではなく批判理論を目指すのか。この違いは、じつはものすごく大きい。
これは、毎回感じることですが、やはり監修者のスタンスは、サイエンティスト、エンジニアのそれであり、そうである限り、社会と向き合う時にどうしても脇が甘くなります。その脇の甘さが、社会やあるいは人文系の学問に橋を架けるうえで結構重要だと、もしもそのように認識されているならば、それは全くの誤解。RGが工学的知と人文的知の交錯する場所になりうるためには、あとまだ数十回のディスカッションが必要だなぁと思いましたね。というわけで、ぜひまた来年の開催を期待します。
  
Posted by mirouuru at 23:00Comments(0)TrackBack(0)

2007年10月29日

「におい教育に向けて」のイベントのお知らせ

継続してやっている研究会。司会進行役をおおせつかって早4回目。緊張感がまったくなくなって、ちょっと反省モード。もう少しアドリブを入れてもいいのだろうけれど、それぞれの議題になれば、座長が司会をする。「座」そのものを円滑に運営するための潤滑油的進行。杓子定規すぎるのはダメだが、でしゃばりすぎてもいけない。なかなかスタンスがむつかしいのである。文理シナジー学会の司会で、要領はつかんだつもりだが、やはりまだまだ。マンネリ気味と思っても、逆に修練のつもりで一生懸命にやろう、と自分に言い聞かせる。
今回の研究会のゲストは、これまで『談』や『TASC monthly』、『Webマガジン"en"』、『nature interface』でお世話になった調香師の鈴木隆さん。「匂いと愉しみ」についてお話しいただいた。詳細についてはいつか別の機会に譲るとして、最後に「サイエンス・アゴラ2007」の一つとして「においと教育」の関わりを考えるイベントを紹介されたので、この場を使って告知しておこう。
「サイエンス・アゴラ2007」は、日本のサイエンスコミュニケーションの発展を目指し、日本各地の活動を実践を交えて紹介し、現状の課題や今後のあり方を議論する交流の広場(アゴラ)。期間中に、120近い出展が予定されているが、その一つに「におい・かおり専門ネット」の主催で「においの不思議−くんくんと嗅覚を再発見!体験!」を出展するというもの。
「私たちはなぜにおいを感じるのでしょうか?嗅覚の仕組みを学び、生活空間のにおいの多様性を実体験してみませんか?犬のようにくんくんと"においの世界"を再発見」しようという狙い。
日時:11月23日〜25日
場所:国際研究交流大学村(東京国際交流館、日本科学未来舘、産業技術総合研究所臨界副都心センター)
主催:におい・かおり専門ネット
    ↓
サイエンスアゴラ2007  
Posted by mirouuru at 23:38Comments(0)TrackBack(0)

2007年09月27日

バタイユにとって「「アセファル」とはなんだったのか。

早稲田大学法学学術院教授・吉田裕先生にインタビュー。「無意味の意味/非-知の知」のテーマは、ジョルジュ・パタイユから借用させてもらったが、バタイユ思想の核心ともいえる「無意味」について、「非-知」との関連でお話していただこうというのが狙いだ。吉田先生は、ご著書『バタイユの迷宮』で、バタイユの思考についてこんな風に整理している。「『有用性の限界』と『有罪者』から始まり、『内的体験』を導き出し、再び最初の書物に戻り、さらに、『呪われた部分』を出現させるが、それは〈謎〉をめぐる転位として実行されている。『有用性の限界』が〈謎を解〉こうとする書物だとすれば、『内的体験』は〈謎を生き〉ようとする書物だった」のではないかと言うのだ。この過剰であり残余である「呪われた部分」を、バタイユのもう一つの重要な概念「非-知」とどう連接しているのか、おそらくそのつながりを追究することによって、「無意味」というものの「意味」を逆説的にあぶり出せるのではないかと考えてみたのである。「〈呪われた部分〉は、エネルギーの使途においてあらたな富を生み出さないために、功利性を原則とする社会から、無益なものとして排除された部分、すなわち〈非生産的な消費〉を指し、バタイユにとっては〈有用性の限界〉の主題をより広範囲にかつ象徴的に表す表現」となっているとしたら、さしあたって、われわれはこの『有用性の限界』を精確に読み解くことから始めなければならない。こうして、吉田先生は、『有用性の限界』を読むことによって、〈非生産的な消費〉をも含んだ問題系に、「消費(spend)」から「消尽(consumption)」への異同を確認するのである。
戦争、供儀、笑、交感(コミュニカシオン)、そして死。バタイユ思想には繰り返し出てくるこれらの言葉は、まさに「有用性の限界」において「消尽」そのものを表す概念なのである。そして、その先にあるものは、ほとんど「無意味」といっていい「呪われた部分」なのだ。ついでに言っておくと、この「消尽」へと向かうベクトルの延長線上にあの秘密結社「アセファル」があるとみれば、これまで不可解さにおいてバタイユ思想の最大の謎であった「アセファル」の意図もおぼろげながら感知できるのである。
  
Posted by mirouuru at 23:30Comments(0)TrackBack(0)

2007年09月26日

澤野雅樹先生と萱野稔人先生の「公開対談」残りわずか。

18日のブログでお知らせしました澤野雅樹先生と萱野稔人先生の「公開対談」、残りわずか(といっても全部で15なのに)ですが、まだお席がございます。どうぞこの機会に、ふるって応募下さい。  
Posted by mirouuru at 21:31Comments(0)TrackBack(0)

2007年09月25日

トイレットペーパーの包み紙を集めていた先生

都立松沢病院、都立墨東病院を経て今年から東京未来大学の教授をされている春日武彦先生にインタビュー。『談』no.80特集「無意味の意味/非-知の知」のトップバッター春日先生にお願いしたテーマは、「無意味なるものに魅せられて……ささやかだけど役に立つこと」。
春日先生は、『奇妙な情熱にかられて』(集英社新書)で、なぜか気になるもの、心に語りかけてくるものとして「ミニチュア、境界線、そっくりなもの(贋物)、蒐集」の四つを挙げて、実生活にはまるで役に立たないけれども、腑に落ちた気分が得られるところがいい、そしてそれはある種のリアリティにつながるとおっしゃっている。きわめて個人的に見えるそうした趣味、趣向は、意外にも普遍性をもっていて、それこそがこころの働きであるともいう。だからこそ、そこに人々はリアリティを感じるのではないかというのが先生の考え。先生自身も蒐集家で、今はもうやっていないそうだが、ひところはトイレットペーパーの包み紙を集めていたそうな。蒐集の醍醐味とは何かと言えば、それは確認の喜びだという。「ありえるかもしれない」「あったら面白いな」と想像をどんどん発展させていくところに、無類の面白さがあるというのだ。トイレットペーパーの包み紙には、たとえばペンギンの絵のついたものがある。ならば、きっと駱駝だってあるはずだし、麒麟だってあるかもしれない、と、どんどんイマジネーションをたくましくさせていく。ある時ふと気が付くと、6畳の部屋の隅から隅までトイレットペーに占拠されていたということになるのである。
さて、そんな先生なので、話がつまらないはずはない。抱腹絶倒とまではいかなかったけれど、十数回は腹を抱えて笑いました。インタビューの内容は、本誌でお読みいただくとして、こいつはJT向け、と思われる面白いネタをひとつ紹介しよう。
春日先生の長い臨床経験から分かったことなのだが、統合失調症の患者さんの多くは、かなりすごいヘビースモーカーだというのだ。一日100本吸うような人がざらにいるらしい。しかも、本数が多くなっても、小遣いが増えるわけではないので、だんだんたばこのグレードが、低位安定方向へシフトする。つまり、彼らのお気に入りは、「しんせい」「わかば」「ゴールデンバット」だという。こうした国産たばこが大量に売られているたばこ屋さんがあったとしたら、きっと近くに精神病院があるはずだ。
なぜ彼らはそんなにたばこを吸うのか。春日先生曰く、「やることがないからですよ、たばこでも吸ってない限り暇を持て余して」、それこそ狂ってしまう(?!)という。つまり、彼らの最大の愉しみであり暇つぶしがたばこなのである。そして、さらに注目すべきは、統合失調症の入院患者で肺がんになっている人は、全くといっていいほどいないのだそうだ。重い統合失調症の患者さんには、それこそ数十年と入院している人がいる。彼らの世界は、病室かせいぜい病院の敷地の中。外の世界と完全に隔絶された生活をおくっている。ここで、はは〜んと思いましたね。要するに彼らは、外に一歩も出ないゆえに肺がんにかからない。ということは、外に出ると肺がんのリスクが俄然高くなるということになる。だったら、養老先生が主張しているように、「肺がんの最大のリスク要因はクルマ」というのは、案外あたっているのかもしれませんぞ。
春日先生は、もちろん喫煙擁護派かどうかはしりませんから、これはぼくの単なる想像ですが、なかなか面白いネタではあるでしょう。
  
Posted by mirouuru at 23:18Comments(0)TrackBack(0)

2007年09月07日

世の中を作るのは数字(効果)ではなく理念、これが今回の結論

昨日は、 JT会議室でTASC談話会の二回目。東京大学大学院社会学研究科准教授赤川学さんに講演をお願いした。テーマは、「社会のなかの統計 リサーチ・リテラシーのすすめ」。1統計は社会をかけめぐる 2.リサーチ・リテラシーの必要性 3.少子化をめぐる統計 4.たばこ・地球温暖化をめぐる攻防 5.世の中を作るのは数字(効果)ではなく理念という順番でお話していただく予定だったが、実際には、地球温暖化ははしょって、最後は駆け足で5の結論になだれ込んだ。しかし、聴衆の反応は大変良くて、今回もひとまずは成功といっていいだろう。講演の後の談話会でも、赤川さんの周りには常に人だかり。次回は誰をお呼びするのかと、みなさんの関心はすでに第3回に向けられている。企画する立場としてこういう反応は、大変うれしい。いつも言うことだが、JT、TASCの人たちは本当に勉強家だ。期待に応えるよう、こっちもがんばらなくちゃ。  
Posted by mirouuru at 23:04Comments(0)TrackBack(0)

2007年08月21日

『震災時帰宅支援マップ』をもって実際に帰宅してみた。

『震災時帰宅支援マップ』というのがある。一度そのシミュレーションをしてみようと思っていたので、今回の地図特集で実際にやってみることにした。といっても、歩くのはちとしんどいので、自転車に乗って。新宿南口を16時15分に出発。帰宅支援ルートの一つ甲州街道を走った。WC(公衆トイレ)の所在地や震災時に落下する恐れのあるガラス(カーテンウォールのビル)、倒壊する恐れのあるブロック塀が記されている。いちいち止って、地図通りか確認しながら撮影する。西参道からは頭上に首都高速が走る。神戸の震災の記憶があるので、これが崩落したら怖いなぁと思いつつ走る。危険地域は、実際に本のとおりだった。下高井戸から商店街へ寄り道。じつは、わが母校松原高校が帰宅支援センターになっているからだ。なんだかちょっとうれしい。となりの日大文理学部キャンパスを含めて、広域避難場所にな指定されている。見覚えのある店を幾つか見ながら、松原高校の正面玄関へ。記念写真ぽく写す。そのあと、再び甲州街道に戻って、八幡山、環八、給田と通って、 仙川からバス通りを通って19時に帰宅。
撮影しながら自転車で3時間ちょっとかかった。たぶん、歩いて帰る場合は、この倍はかかるだろう。震災はいつくるかわからない。帰宅支援ルートを実際に歩いてみるのはいいことだ。もっともぼくは自転車だったけれど、それでも何が妨げになるか、何が必要になるか、少なくともそのイメージだけはつかめたのでよしとしよう。  
Posted by mirouuru at 23:13Comments(0)TrackBack(0)

2007年08月01日

ペーパーレス化の波は、地図にも影響を及ぼしている。

泉麻人さん、今尾恵介さんの対談。地図に名前を手書きした名刺を持参された今尾さんから口火をきってもらう。
地図が好きという人は、ものの見方が少しばかり変わっているようだ。いや変わっている人が、気がつくと地図マニアになっているという方が正確かもしれない。地図の好きな人は、いつのまにか、自分で地図に書き込んでいる。というよりも、カキコが好きな人は、いつのまにか地図というメディアに行き着いてしまうという方が正確だろう。そして、地図の好きな人は、未だ謎だらけの過去という名の未来へと旅立つ。
地図の好きな人と時刻表の好きな人は重なっているようだ。地図を読むように、時刻表を読み、時刻表を見るように、地図を見る。泉さんが言うように、地図に興味のない人に限ってカーナビをつけると、カーナビに頼りっきりになる。こんな道あり得ないだろうというところでも、なんの疑問もなくカーナビのいう通りに走ろうとする。
IT化の進展もあって、国土地理院の2500分の1の地図の売上が激減しているらしい。日本は、何かに邁進すると雪崩れを打つように右に習えで進んでしまう。気がつくと、紙の地図が地上から消えてしまうかもしれない。100年後の日本人は、それまで豊富だった地図の資料が、2000年初頭に忽然と消えてしまうことに驚くに違いない。そうならないためにも、ぜひ紙媒体として地図を残してもらいたい。約2時間、楽しく教えてもらうことの多かった対談でした。『 city&life』no.85に掲載予定。  
Posted by mirouuru at 14:04Comments(0)TrackBack(0)

2007年07月25日

TASCの助成研究報告会で藤原辰史さんの発表を聞く。

神谷町の虎ノ門パストラルへ。TASCの助成研究報告会。会場はほぼ満員。驚いた。トップバッターは藤原辰史さん。「再生産される〈生命空間〉」(『談』no.75所収)でインタビューさせていただいた京都大学人文科学研究所助教。助成研究のテーマは「台所のナチズム ナチスの食生活と〈無駄なくせ闘争〉」 。「ナチスのむき出しの女性蔑視、男性中心主義にもかからず、なぜ主婦は、戦争に動員されたのか。食生活の中心に位置する台所という場から問う」という斬新な研究。食の内実が均質化し、主婦の人間性剥奪されるかわりに、台所という場が、あたかも生命をもった有機体のようになる。ナチズムの本質にある自然志向が、今回の発表からいっそう明らかになった。「生-権力」の問題をしつこく追っかけてきた『談』としては、いいヒントをもらったように思った。これまで、研究発表会なるものにほとんど出席したことがなかったが、活発な議論が交わされていて、正直びっくりした。助成する限りは、厳しいジャッジは当たり前か。僕もがんばらなくては。JTとも関わりができたので、会場で挨拶する人が増えた。

中座して、中目黒へ。『談』のデザイナー河合君と待ち合わせて写真家の神山貞次郎さんの事務所へ。目黒側沿い。3Fに黒い猫ちゃん。さっそく写真をみせてもらう。最近上杉満代さんの舞台を撮ったんだけど見る?とおっしゃるので 拝見する。これまでの神山さんの写真とはちょっと違う感じ。しかし、これがいいのだ。河合君も閃いたらしく、3点すぐに決まった。これで、ヴィジュアルも揃ったし、あとはeditor's noteだけだ。で、明日がその企画会議。

  
Posted by mirouuru at 23:50Comments(0)TrackBack(0)

2007年07月14日

規律権力/カオスの「グラストンベリー」か、生-政治のFUJIか

イギリスの野外ロックフェスティバル「グラストンベリー」。30年以上の長きにわたり開催されてきたこの伝説的野外フェスのドキュメンタリー映画を観た。過去の資料映像も交えて、ジュリアン・テンプルが監督したライプ映像満載の映画だが、UKの若者文化を活写しているところが面白かった。 FUJI ROCK FESTIVALに代表される日本の野外フェスを体験したことのない人がこの映画を観るとどんな反応をするだろうか。おそらく野外フェスというものはとんでもない「祭り」に映るだろう。トラヴェラーズという得体のしれない連中が闊歩しているかと思えば、ヒッピー、ドラッグ、セックス、暴力のてんこ盛り。裸の男女が泥まみれになって踊り、騒ぎまくる3日間。こんな危険極まりない乱痴気騒ぎが苗場で行われているのだとしたらとんでもないこと、うちの村では絶対反対、と地元の人は思うに違いない。しかし、一度でもFUJI ROCK FESTIVALに行ったことのある人ならば、その反応は全く逆なはずだ。グラストンベリーと比べて、なんとFUJIはきれいで、おとなしくって、ピースフルな祭典、と思うに違いない。日本の野外フェスは、こういってよければテーマパークだ。主催者もアーティストもオーディエンスも、安全・安心のセキュリティ空間の中で身の丈にあったビジネスをし、演奏し、愉しむ。関わったすべての人間が何がしかの満足感、達成感、感動を得れば、とりあえず成功。なにより怖いのは事故であり、リスクを完全にヘッジできれば大成功なのだ。生-政治が完璧な形で貫かれているのが日本の野外フェスなのである。それに比して、「グラストンベリー」の3日間は、いまだ規律権力が力を発揮するイベントである。そこには、他者がいるし、暴力が横行する。しかし、それと同じだけの剥き出しの「生」が存在することも事実だ。「ビオス」を食い破って現出する「ゾーエー」が、裸の状態で乱舞する空間。だからこそ、「グラストンベリー」には、そうした荒ぶる身体の横溢を囲い込むために、高さ5メートルのフェンスが必要なのだろう。さて、われわれはどっちをよしとするか。そりゃ「グラストンベリー」でしょう、と言いたいところだけれど、やっぱりシャワーも浴びたいしお布団で寝たいし、乱暴者はごめんだし……、カンファタブルな空間で普通に音楽が愉しみたいので、テーマパークのFUJIがいいや。なんと軟弱なぼくだこと?!  
Posted by mirouuru at 23:24Comments(0)TrackBack(0)

2007年07月13日

10年ぶりに赤川学先生にお会いしました。

東京大学大学院人文社会系研究科准教授・赤川学さんに面会。TASCで9月に予定している講演のお願いのため。数年前Webマガジン「en」に原稿を依頼した時に電話でお話をしたが、直接お目にかかったのは、『談』no.57「トランスセキュアリティ」以来で10年ぶり。当時信州大学の助手をしておられて、インタビュー内容は「日本人のセックス、日本人の身体」。近代日本におけるセクシュアリティは、 常に「性欲=本能」と「性=人格」という二項対立によって語られてきたが、 果たして性欲は単なる本能なのか、それとも高尚なものなのか、というかなりハードなお話だった。今回は、それとはまったく違って、健康の言説と統計の関係について、社会学的に見るとどう捉えられるのか、といったようなことをお話してもらおうと思っている。赤川先生は67年生まれ。始めてお会いした時はまだ30歳になるちょっと手前で、ういういしさが残る学者先生という感じだったが、今回お会いして、やっぱりお変わりありませんでした。講演楽しみだ。  
Posted by mirouuru at 23:07Comments(0)TrackBack(0)

2007年07月11日

『フリーターズフリー 1号』出版記念トークセッションのお知らせ

『city&life』no.81特集「「安全・安心のまちづくり」を考える」で、これまで自明とされてきた「安全・安心」という言葉の背後に潜む排除・選別の志向を抉り出した鼎談のパネリストのおひとり生田武志さんが、トークセッションに出席されます。

JUNKU連続トークセッション@池袋

2007年8月2日(木)19時〜

『フリーターズフリー 1号』出版記念
(〔編集・発行〕有限責任事業組合フリーターズフリー 〔発売〕人文書院)

フリーターズフリーのつくりかた
―労働問題の新地平のために―

生田武志×大澤信亮×栗田隆子×杉田俊介
(有限責任事業組合フリーターズフリー)

5年の歳月をかけて構想し、共同出資の組合を立ち上げ、
今夏、満を持して創刊した、労働と生を考え抜くメディア「フリーターズフリー」。
私たちの生きづらさ、若年層労働問題の本質とは何か。
我々にはいま何ができ、何を言うべきか。
労働問題の新地平を拓くため、今後の活動構想も交えた注目の徹底討論!
フリーターズフリーのメンバー4人による初めてのトークイベントです。


☆ 会場…4階喫茶にて。入場料1,000円(ドリンクつき)定員40名
☆ 受付…1階 サービスカウンターにて。電話予約承ります。

ジュンク堂書店 池袋本店
TEL.5956-6111 FAX.5956-6100

パネラー紹介
★生田武志(いくた・たけし)/1964年生れ。大学在学中より野宿者支援活動を始めるとともに、1988年より日雇労働。2000年、キルケゴール論にて群像新人文学賞優秀賞受賞(評論部門)。著書に『〈野宿者襲撃〉論』(人文書院)。
★大澤信亮(おおさわ・のぶあき)/1976年、東京生れ。物書き・編集者。映画専門大学院大学助手。著作に『「ジャパニメーション」はなぜ敗れるか』(大塚英志との共著)、「コンプレックス・パーソンズ」(「重力02」)、「マンガ・イデオロギー」(「comic新現実」)など。
★栗田隆子(くりた・りゅうこ)/1973年、東京生れ。『子どもたちが語る登校拒否』(世織書房)に経験者として寄稿。学生時はシモーヌ・ヴェイユについて研究。ミニコミ・評論紙等において不登校・フェミニズムについての論考を散発的に発表。現在、国立保健医療科学院非常勤職員として勤務。
★杉田俊介(すぎた・しゅんすけ)/1975年、神奈川生れ。介護労働者(本業)+ライター(副業)。著書に『フリーターにとって「自由」とは何か』(人文書院)。現在、労働+福祉+批評の第二著作を準備中。

  
Posted by mirouuru at 19:50Comments(3)TrackBack(0)

2007年07月10日

廣瀬純さん講演会 「ラテンアメリカ社会運動の最前線」のお知らせ

人文書院編集部松岡隆浩さんより『TASC Monthly』2oo6年12月号に「健康と思考−「美味しさ」の非有機的な力」をご寄稿いただいた廣瀬純さんの講演会のお知らせをいただきましたので転載いたします。

廣瀬純講演会とシンポジウムin京都 7月22日

新自由主義の破綻:ラテンアメリカ社会運動の最前線

日時 2007年7月22日(日)午後1時から5時(予約不要、入場料カンパ制)
場所 ひとまち交流館京都(河原町五条下る)
講師 廣瀬純さん(龍谷大学専任講師)

 廣瀬純さんの著書『闘争の最小回路』のポイントは、ラテンアメリカでの新自由主義の行き詰まりの帰結として、最近ブラジル、ベネズエラ、ボリビアなどで反米左派政権が誕生していますが、政権に指導者を送り出した社会運動は、必ずしも政権になにか期待している訳ではないという実情があるという点です。廣瀬さんは、この点について多面的な視点から、具体的に論じておられます。
 日本の場合、新しい社会運動は、まだ社会的に認知され、広範な戦線を形成するというところまではいっていません。社会的経済や社会的企業といったEUの社会運動に学んで、労働組合と協同組合とその他の非営利事業体との緩やかな連携を作り出そうという試みが始まったばかりです。しかしEUでも根強い新自由主義への動きがある中で、いわば新自由主義の後始末として登場しているラテンアメリカの社会運動の現状を知ることは緊急の課題だと思います。ふるってご参加ください。参加費はカンパ制です。

進行
第一部 講演:廣瀬純さん 「ラテンアメリカ社会運動の最前線」
第二部 シンポジウム 「日本の運動との接点を探る」
パネリスト 廣瀬純さん、表三郎さん(ネットワーク情況・関西)、櫻田和也さん(NPO法人remo)、法橋聡さん・斉藤縣三さん(共生型経済推進フォーラム運営委員)
司会 境 毅さん(共生型経済推進フォーラム運営委員)

最近のラテンアメリカの社会運動について紹介した廣瀬純さんの著書『闘争の最小回路』(人文書院)は会場で発売しています。

主催:ネットワーク情況・関西 共催:共生型経済推進フォーラム
(連絡先)Eメール:sakatake2000@yahoo.co.jp 携帯:080-3139-7820(境)

協力団体:NPO法人remo、NPO法人ニュースタート事務局関西、人文書院、NPO法人日本スローワーク協会、NPO法人ワーカーズ・コレクティブ・サポートセンター

  
Posted by mirouuru at 23:25Comments(0)TrackBack(0)

2007年06月29日

「〈空間管理社会〉再考……空間の〈なに〉が問われるべきなのか」という鼎談

『TASC monthly』公開鼎談「〈空間管理社会〉再考……空間の〈なに〉が問われるべきなのか」を行う。
出席者は、玉川大学教授・岡本裕一朗さん、関西学院大学社会学部教授・阿部潔さん、国際大学グローバルコミュニケーションセンター研究員・鈴木謙介さん。今回のテーマそのものが、『空間管理社会─監視と自由のパラドックス』(新曜社)で出された幾つかの論点をもう一度議論していただくというのがねらい。なので、司会進行役をその本の編者のお一人である阿部潔さんにお願いした。
従来のような権力側による人々の監視・管理といった一元的な動きとは異なる、現在の監視社会の諸状況を「両義性」という切り口で捉えることはできないかという問題提起を受けて、「防犯カメラ」「個人情報の収集管理」「コミュニティパトロール」「メディアによるセレブリティの管理」「警察権力による国民の監視」など現実に起こっているさまざまな事象を拾い上げながら、密度の濃い議論が展開された。現代の管理を考える場合に、テクノロジーの変化が管理の内実を変容させている意識の変化とどうリンクしているのか、その点を把握することが一つ重要な鍵になると思われる。現代社会において誰が誰をなんのために管理しているのか、その大前提こそが問われなければならないのである。
今欠けているのは悪に対する想像力ではないか、祝祭空間のもつ意味をあらためて考える必要があるのではないか、秩序/反秩序という枠組みを越えるための脱秩序化という発想の重要性などが提起された。ちょうど、『談』の次号特集のキーワードが「祝祭」。特集を編集するに当たって、いい参考になった。
今回の鼎談は、『TASC monthly』(何号かは決まっていないが)に掲載予定。  
Posted by mirouuru at 23:33Comments(0)TrackBack(0)

2007年06月18日

1991年の8月にもう一度時計の針を戻して見よう。

「正しいこと」をそれぞれが全うしようとするがために暴動へと発展していく過程を軽妙に描いて絶賛されたスパイク・リー監督86年の作品『ドゥ・ザ・ライト・シング』。後にブルックリンで実際に起こるクラインハイツ暴動を予見させたということで、スパイク・リーは一躍、時の人になった。ぼくも、ビデオになってからすぐに借りて見て、衝撃を受けたことを覚えている。しかし、冨田晃さんの『祝祭と暴力』を読んで、少し見方が変わった。この映画は、あることを巧妙に避けているというのだ。「スパイク・リーは、ブルックリンの多様性を表現するために、「黒人」「イタリア人」「プエルトリコ人」「韓国人」「警察」とキャスティングしているが、各黒人が持つ文化的・歴史的背景の多様性や黒人内の集団間の対立の問題には触れ」ず、「ブルックリンの黒人の大半が、カリブ海地域生まれか、その二世であるにも関わらず、「黒人=アフリカ系アメリカ人」として描いた」というのである。80年代後半、真の黒人監督として評価を受けたスパイク・リー。だが、彼の考える黒人とは、抽象化され一元化された「黒人」であり、「黒人」であることの多様性を自ら否認してしまったのだ。米国史上最悪の人種暴動の一つ「クラインハイツ暴動」。それをどう解釈するか。ブルックリンの黒人居住地の真ん中にあるルバヴィッチ派ユダヤ人との宗教的な対立? 貧困からくる矛盾? ブラックパワーこそ正義? 同じ移民たち同士の共生の難しさ? いや、問題はそんなに単純ではない。ブラックアフリカンだけがブラックではないように、ユダヤ人にもさまざまな顔がある。ミックスジュースからサラダボールへ。そして、今は「モザイク」。だが、この「モザイク」という言葉に潜む陥穽をこそ問われなければならない。人種、国籍、国家、宗教……。いったい、その何が「モザイク」なのか。今問われるべきは、「モザイク」の意味そのものだ。

  
Posted by mirouuru at 23:00Comments(0)TrackBack(0)

2007年06月05日

人選でほぼ決まるのは、サッカーも研究会も同じだ。

『談』に登場していただいた現代思想の専門家で言語学、とくに日本語についての著作も多い先生をゲストにお呼びしたとある研究会。これが大成功。当を得た話題を提供してくれたこともあるが、後半の質疑応答では、まさに立板に水のごとく、どのような角度から質問がきても、スパッと切り返す。ディスカッションは、終了後の懇親会にも引き継がれた。常に研究会がこういう形で行われればいいのだが、経験からいうと、滅多にないことである。やはり、初発での人選でほぼ成功か不成功かは決まるといっていい。帰宅後、録画しておいたキリンカップを見る。海外組が機能しなかった前半の戦いぶりに業を煮やしたオシム監督は、後半羽生を投入。この采配がズバリ効いて、点こそ入らなかったが、後半は別のチームじゃないかと思えるような、いい試合運びだった。やはり、すべては人選だ。誰をどこで使うか。講演もスポーツもこれにつきるような気がした1日であった。
  
Posted by mirouuru at 23:52Comments(0)TrackBack(0)

2007年05月23日

たばことオーガニック&エコロジーの微妙な関係

アースガーデンの南兵衛さんの事務所へ。アースガーデン
は、「オーガニック&エコロジーとライフスタイル」をメインテーマに『アースデイ東京』『ライフスタイル・フォーラム』『国連大学 世界環境デ ー』など、数多くのイベントで、企画提案や制作運営をおこなっているところ。ぼくは、フジロック・フェスティバルのアヴァロンというスペースのコーディネイトでその活動に興味をもっていたのだ。 弊社から徒歩3分。1階がアースガーデンがやっている立ち飲みバー・お弁当カフェ「キミドリ」。階段を上ってドアをあけると6畳ほどのスペース。「ちょうどきりがついたところ、スタバで待っててください」と。スタバの2階へ。すぐに現われる。南兵衛さんとお会いしたのは、立教の講義のゲストスピーカーにお呼びしたからである。招聘書に名前・住所などを書いてもらう。概要を話し終えると、『談』のことをきっかけにJTについて。じつは自分はタバコ吸いで、エコ・オーガニック系のひとの中にはまるでダメなひともいるけれど、逆にたばこ吸いもけっこういるという。とくに自分たちの事務所は喫煙率が高い。南米をずっと自転車で旅していた時も、一生懸命走って休憩した時に一服するたばこのうまさは格別だったと、懐かしそうにおっしゃる。たぱこには不思議なパワーがあると眼を輝かせてお話しされた。 南兵衛さん自身が主催しているフェスティバル「アースガーデン」で、たばこをきっかけとするようなコラボでもやりましょうと約束してわかれた。たばこを通した「オーガニック&エコロジーとライフスタイル」の実践。確かに、これまでない切り口だ。よし、今度まじめに企画してみよう。  
Posted by mirouuru at 23:23Comments(0)TrackBack(0)

2007年05月22日

現在の生-権力に抗することとはどういうことをいうのか。

立命館大学先端総合学術研究科准教授・天田城介さんを研究室に訪ねる。『TASC monthly』へのご寄稿をお願いしてあったので、その内容についての確認のため。立教大学卒業とあったのでちらっと尋ねると、やはり木下康仁先生のところにおられたという。木下先生には『談』no.59「老いの哲学」でインタビューをさせていただいたが、その記事も読んでおられたらしい。天田先生の研究室には灰皿がどうどうと置いてある。かなりのヘビースモーカーとおっしゃる。同行した新留さんは、研究室でこうして紫煙をくゆらせて打ち合わせができるのは珍しいと、とても喜ぶ。先端研自体がたばこには寛容で、他にもたばこの煙がたゆたう研究室がいくつもあるらしい。学内どころか研究室も全面禁煙などという大学が多い中で、じつに貴重な存在である。こうした事情も含めて先端というのだろうと勝手に納得する。次に甲東園の関西学院へ。社会学部教授阿部潔さんの研究室を訪ねる。『TASC monthly』の鼎談の打ち合わせ。この企画はそもそも阿部先生が編著の『空間管理社会』がきっかけ。あらためて全体の進行役をお願いする。阿部先生は茶髪にピアス、穴あきジーンズというスタイル。現代と常に真正面から向き合うのが社会学であるとすれば、阿部先生こそ「現在ただ今」を生きる真の社会学者だ。学内に防犯カメラが設置されたり、禁煙化されたりということが、なんのまえぶれもなく、気がつくとそうなっているということに阿部先生は憤っておられた。生-権力を内在的に批判することはむつかしい。しかし、あえて抗し続けること。ぼくは阿部先生の現在への向かい方に共感する。これで、鼎談はぜったいに面白くなると確信する。6月の終りが待ち遠しい。

  
Posted by mirouuru at 23:00Comments(0)TrackBack(0)

不寛容も「劣化」のあらわれ?!

香山リカさんより近刊『なぜ日本人は劣化したか』(講談社新書)を贈呈していただいた。
知らず知らずのうちに日本と日本人の学力・知性・モラルの崩壊が始まっている。頼みの綱であるはずのコンテンツ産業もここにきて失速しかけている。確実に何かが変化している。これは、変化というようななまやさしいものではないのかもしれない。著者ははっきりとこう言うのだ。日本人は、「劣化」しているのではないかと。それも全世代、全階層、全分野にわたって。しかも、急速に。
さまざまな現象から、著者は日本と日本人の「劣化」について言及する。とりわけ筆者が注目したのは排除型社会へと急激に傾斜していくなかでの「寛容」の劣化についての考察だ。ジャック・ヤングが「ゼロ・トレランス」という概念で言おうとしたのは、それが犯罪を抑止する力にはならないということだった。ところが、日本では逆に「ゼロ・トレランス」が「割れ窓」論と一緒になって、犯罪抑止のための議論にすり替わってしまった。これはまさに「寛容の劣化」とでもいう事態ではないかと著者はいう。昨今の監視、管理の強化や厳罰化を求める声の背景には、じつは「寛容の劣化」があるというのだ。社会の不寛容さについて考える上で、これはおおいに参考になる意見である。
劣化をどうやって食い止めるか。他者への寛容なこころをもつ力にその活路を見出す。
なぜ日本人は劣化したか
  
Posted by mirouuru at 00:54Comments(0)TrackBack(0)

2007年05月17日

気がつくといつのまにか……

法政大学へ。法政は野外に屋根付の喫煙所があった。杉田敦田先生に『TASC monthly』の原稿依頼。法政も全面的に禁煙になっているようだが、先生は喫煙者ではないにもかかわらず、告知もきちっとしないで進められたことに対しては抵抗されたらしい。大学は未成年者もいるので学内を全域禁煙化することに対しての合意形成は得られやすいのだろう。とはいえ、気がつくといつのまにかそうなっているというのは、やはりおかしい。非喫煙者であるぼくもきっと抗議したはずだ。  
Posted by mirouuru at 23:01Comments(0)TrackBack(0)

2007年05月16日

今や学内「全面禁煙」という大学がほとんどらしい

GLOCOMへ。少し早くついたので、元テレ朝通りの周辺を少し散歩。そういえば、浅田彰さんと香山リカさんを引き合わせたのはナイジェルコーツデザインの「メトロポール」だったなぁと、今はその面影さえない六本木ヒルズを眺めつつため息などついてみた。
10分前につくともう新留さんは待っていた。GLOCOM研究員鈴木謙介さんを訪ねる。TASC鼎談参加の正式なお願い。近著『〈反転〉するグローバリゼーション』で「市場の再埋め込み」について論じているが、その事例として「秋葉原有料トイレ設置」についてふれているという。できるだけ具体的な話を出した方がいいので、その話題など出しながら議論しましょうかと。今回の人選は○だ。新留さんとラーメン屋へ。九州ご出身なのでラーメンにはうるさい。で、みつけたのが隣のZONE六本木地下1Fの久留米ラーメン店「ラーメン鐡釜」。はりがね(超堅め)の麺を注文する。思ったほど堅くなかった。これならこなおとし(超超かため)に挑戦すればよかった。それでお味の方はというと、新留さんからOKサイン。うん、確かに美味かった。
今年の秋に閉店が決まったBook1st渋谷店へ。鈴木さんが言っていた通り『〈反転〉するグローバリゼーション』は平積みになっていてその上にPOPが。なんと本はすべてビニール装してあって、開いたらチャーリーというサイン入り! 急いで井丿頭線駅へ。それを読みながら下北乗り換えで玉川学園へ。20分も早く着いたのにすでに新留さんは正門前で待っているではないか。ここは、正門入り口から全面禁煙。奥の5号館の岡本裕一朗先生に面会。同じ鼎談への正式な参加要請。全面禁煙なんですねと尋ねると、防犯カメラがそこら中に設置されているという嘘みたいなことをおっしゃる。この大学はクリーンで美しく、現代の管理社会のまさに典型的なモデル。一部では、玉○の○○鮮と言われているらしいが、なんとなくわかる。岡本先生も今回の企画には大変乗り気で、鼎談はかなり盛り上がりそうだ。  
Posted by mirouuru at 23:13Comments(0)TrackBack(0)

2007年05月11日

差別とは、自分と世の中をつなぐひとつの形ではないか。

少し時間がたってしまいましたが筑波大学大学院人文社会科学研究科教授・好井裕明さんから『差別論 〈わたし〉のなかの権力とつきあう』(平凡社新書)を贈呈していただきました。好井さんには、『談』no.39「理論のプレシオジテ」という特集でインタビューをさせていただいただきましたが、昨年『TASC monthly』への原稿執筆のお願いで20年ぶりにお会いしました。(「日常的な差別や排除を考えること」というタイトルで、『TASC monthly』no.372号に掲載)。本書は、その原稿ももとになっていると「あとがき」に記されています。
「差別。確かにそれは、差別する者の行為や意識に宿っており、差別を受ける人々のこころや日常を侵害していくものだ。これは間違いないだろう。しかし、この発想だけで差別を考えるとき、差別は「事件」となり、私たちの日常生活からは、確実に離れたものとなるだろう。そうではない、差別は常に、私たちが生きている日常で起こっていることであるし、これまで生きてきた歴史の中で、起こってきたことなのである」。「とりあえず、こう考えを変えておきたい。差別は「してはいけないこと」「あってはならないこと」ではない。差別は、「してしまうもの」であり、「あってはならないと思うが、そのためには、何をどのようにし続けたらい(ママ)のか」と自らが日常生活のなかで考え、いろいろと実践するうえでの"意味ある手がかり"であると」(本文より)。
差別とは、自分と世の中をつなぐひとつの形ではないか。私が、差別といかにして出会えるか。そこから、具体的な差別とのつきあい方を立ち上げようと提言します。そのための一歩は、まず「決めつけ」「思い込み」を崩すこと。すべてはそこから始まります。
差別原論?〈わたし〉のなかの権力とつきあう
  
Posted by mirouuru at 23:00Comments(0)TrackBack(0)