no.67「リスクのパラダイム」でインタビューをさせていただいた北海道教育大学釧路校助教授・北澤一利さんから、『近代日本の身体感覚』(青弓社)を贈呈していただきました。12人の若手の研究者による論文集で、北澤さんは国際日本文化研究センター教授・栗山茂久さんとこの本の編者をされておられます。身体の基層部で絶えず変容を強いられる感覚について、医療、美、視覚化、身体化、こころといった視座から、その変容の様相に迫ろうという意欲的な企画です。個人的な舞踏への関心から、榑沼範久さんの「〈人間化〉から〈動物化〉へ…舞踏家・土方巽の〈肉体の反乱〉」、それと、やはり北澤一利さんの「栄養ドリンクと日本人の心」を興味深く読みました。感覚変容の問題を論じる場合、表象論やイメージ論で語ってお茶を濁す場合が多いように見受けられますが、この本では感覚変容を現象として捉え、実証的な検証を踏まえて考察されているので、どの論文も説得力があります。一読をお奨めします。
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1. 舞踏論2:舞踏と空虚
- [artshore 芸術海岸]
- 2005年03月17日 14:32
- スペインの建築思想家イグナシ・デ・ソラ=モラレス・ルビオー(Ignasi Sola-Morales Rubio)は、なんらかの一連の出来事が起こったのちに放棄された空虚な場所を「テラン・ヴァーグ」(terrain vague)と名づけています。都市の中心部に位置する活気に満ちた場所ではなく、そ
コメント一覧 (3)
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- 2004年10月11日 13:55
- はじめまして。Blogで紹介していただいた『近代日本の身体感覚』に土方巽論を載せている榑沼範久です。拙論を読んでいただきましたこと、感謝しております。もともと私は舞踏批評/舞踏史とは縁がなかったのですが、土方巽のもとで舞踏を修業した舞踏家・和栗由紀夫氏やダンス論の松澤慶信氏と座談会を行なったことが契機となり、破れかぶれで土方巽論を書いてしまいました。座談会の記録は、私の共編著『運動+(反)成長−身体医文化論II』(武藤浩史と共編、慶応義塾大学出版会、2003年)に収めましたので、ご高覧いただければ幸いです。編者の一人として申し上げるのも恐縮ですが、座談会のなかでは、土方巽の恐ろしくも愉快な存在が、和栗さんの魅力的な語りによって生々しく蘇ってくる思いをしました。この書籍の序文は、身体医文化論研究会のウェブページ(http://web.hc.keio.ac.jp/~asuzuki/BMC-HP/home.htm)で読んでいただくこともできます。今後とも、よろしくお願いします。
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- 2004年10月11日 23:01
- 榑沼範久さん、はじめまして。直々にコメントをいただくとは思わなかったので、大変うれしいです。土方巽論である「〈人間化〉から〈動物化〉へ 舞踏家・土方巽の〈肉体の叛乱〉」は、真っ先に読ませていただきました。僕自身、"生"土方の舞踏は、大野一雄さんが長い沈黙を破って舞台に立った『アルヘンチーナ』のアンコールに大野さんの手を取りながら現れたのを見たのが最初で最後。昨年何本かのフイルムを見て、あらためてその特異性に驚きつつ、土方巽をもう一度舞踏史の中で捉え直すべではないかと思っていた矢先、榑沼さんの論文に出会った次第。僕は、90年代に芦川羊子の白桃房(現・友惠しづねと白桃房)といくつかの仕事をしました。芦川さんの身体は完全に土方巽そのもので、彼女はむしろそれを疎ましく思っていたようにも見えました。なぜ土方巽なのか。それは、なぜ舞踏でなければいけなかったのか、ということでもあります。すでに『身体医文化論 感覚と欲望』、『運動+(反)成長 身体医文化論2』が出版されていたことも知らず、また、ハル・フォルスターの『視覚論』を読んでいたのに、まったく迂闊でした。ぜひ一度ゆっくりお話を聞かせていただければと思っています。「身体改変―メタモルフォーゼとハイブリディティ」面白いテーマですね。これは部外者でも参加できるのでしょうか。
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- 2004年10月13日 01:01
- 佐藤真さん、メールありがとうございました。私もぜひ佐藤さんとお会いすることができればと思っています。スローな体質に加えて、横浜国大メディア研究講座の濃いスタッフのなかで揉まれているあいだに、3年が経ってしまったのですが、建築・都市デザインの雑誌『10+1』(INAX出版)NO.36(9月刊行)から「視覚の身体文化学」(4回連載)を始めたのを機に、そろそろ仕事のうえではスローな体質を改善しようとしているところです。
ええ、身体医文化論研究会はどなたでも参加できる開放的な集まりです。「お偉い先生」に気をつかったりすることなく、また、非生産的な党派的争いもなく、誰もが対等に議論することのできる実質的な集まりだと感じています。学会・研究会にはなるべく参加してこなかった私でさえ、なぜか顔を出し続けているくらいなんですよ。通例、毎月1回の月例会(10/29,11/26...)を、慶應大の日吉キャンパスの来往舎という建物で、午後6時半から開催しています。お時間ありましたら、ぜひいらしてみて下さい。
舞踏ということですと、今日、横浜国大の学部3年生のゼミで谷川渥さんの『鏡と皮膚−芸術のミュトロギア』を読んでいたんですね。そこにニーチェの『華やぐ智慧』からの引用がありまして、有名なところなんですが、「表面に、皺に、皮膚に敢然として踏みとどまること」というくだりです。そうしたら、学生のひとりが、なぜ「踏」という言葉が使われているのか?と言うのです。ドイツ語を確認しないまま、『ツァラトゥストラはかく語りき』が思い出され、「これはきっとデュオニソスの舞踏と関係がある」と断言してしまいました。ニーチェに関する真偽はともあれ、ニーチェのこの言葉を、舞踏のための教本として読んでしまうことはできるように思います。たとえば、土方巽が弟子にこう言う場面を想像してしまうんですよ。「表面に、皺に、皮膚に踏みとどまって踊りなさい。それが舞踏というものなんだね」。大地の重力から離脱することを志向する身体ならば、あるいは気持ち良くトランスしようとする身体ならば、この言葉に混乱をきたすことでしょう。そして、学生たちに問いかけてみました。「もし『表面に、皺に、皮膚に踏みとどまって踊りなさい』と土方巽に投げかけられたら、どのように身体を踊らせることができるか? ここから舞踏が始まるのだよ」。土方巽の講演を録音したCDを聴いて以来、どうもあの声が耳から離れません。