書店販売に先立ち、一足先に『談』ウェブサイトでは、各インタビュー者のアブストラクトとeditor's noteを公開しました。
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特集 ゼロ度の隔たり……ガラス・イメージ論

「〈見えている〉という〈状況〉は私自身を取り込み、私を包んでの風景が〈見えている〉ということなのである。それは一つの全体的〈状況〉であり、全体的〈場〉なのだ。この全体的〈場〉の中においてのみ、ここの私とあそこの絵、あるいは目をそちらに向けている私とあそこに〈見えている〉絵、という〈関係〉が成り立ちうるのであって、それを成り立たしめている〈場〉である〈見えている〉という状態とはなんの〈関係〉でもないのである」(大森荘蔵)。

われわれの生きている現実とは、このような世界のことではないでしょうか。そして、われわれはこの場所おいて、初めて実在する「もの」たちと出会うことができるのです。透かし見ているのは「私」ではない。また、他の誰でもない。透かし見る人などどこにもいないのです。その透かし見る世界=透視風景がかくあること、そのことが「私」がかくあることであり、「私」がここにいる、ここに生きているそのことなのです。
私が「見えている」から始まるゼロ度の知覚。しかし、そこにはすでに私もいないのです。

〈ガラスと映画〉「たんに見る」ことがなぜ難しいのか。
・福尾匠(横浜国立大学博士後期課程・日本学術振興会特別研究員(DCI)。専門は、現代フランス哲学、批評)
影絵が映画のモデルとなったのは、いつ頃からでしょうか。それは端的に素朴なリアリズムであり、代わって、ガラスこそ映画ではないかと福尾匠氏は言います。ガラスは、外の景色が見えると同時にこちら側の世界も映り込む。客観的なものと主観的なものを同時に存在させてしまうガラス。映画を透明なメディウム=ガラスとして捉え直し、映画を見るとはどのような経験をいうのでしょうか、あらためて考察します。

〈ガラスと認知機能〉見えるものと見えないものの対話
・藤田一郎(大阪大学大学院生命機能研究科および脳情報通信研究センター教授。専門は、認知脳科学)
これまで、ものを見てなんであるかを意識的に感じ、それにもとづいて視覚対象に働きかけていると考えられていました。しかし、最新の脳科学研究で、見えることと見たものに働きかけることは独立した別々の出来事であることがわかってきました。見ることにおいて、「ものが見えるという主観体験が生じる」ことと、「見ることに依存して行動を起こす」ことが、あたかも協同しているように見えるのはなぜでしょうか。脳と認知機能の不思議で複雑な関係を藤田一郎氏が解き明かします。

〈ガラスとフォールスメモリー〉見られた記憶は本物なのか
・越智啓太(法政大学文学部心理学科教授。臨床心理士)
私たちは、多くの思い出をもっています。楽しい思い出もあれば、悲しい思い出もある。時には、思い出に苦しめられることもあります。思い出は、まさに人生そのものなのです。ただ、その思い出たちが「本物」かどうかいうと、じつはかなりあやしいということが、最近の記憶研究からわかってきました。記憶の書き換えでつくられるフォールスメモリーについて、視覚経験とのかかわりから考察します。

インタビュー者プロフィール
福尾匠(ふくお・たくみ)
1992年生まれ。横浜国立大学博士後期課程、日本学術振興会特別研究員。専門は、現代フランス哲学、批評。 著書に『眼がスクリーンになるとき ゼロから読むドゥルーズ「シネマ」』(フィルムアート社、2018)、論文に、「映像を歩かせる 佐々木友輔『土瀝青asphalt』および「揺動メディア論」論」(『アーギュメンツ ♯2』、2017)
藤田一郎(ふじた・いちろう)
1956年広島県生まれ。大阪大学大学院生命機能研究科および脳情報通信研究センター教授。専門は、認知脳科学 著書に『脳がつくる3D世界 立体視のなぞとしくみ』(化学同人、2015)、『「見る」とはどういうことか 脳と心の関係をさぐる』(化学同人、2007)他
越智啓太(おち・けいた)
1965年横浜生まれ。法政大学文学部心理学科教授。臨床心理士。専門は、犯罪捜査への心理学の応用。 著書に『つくられる偽りの記憶 あなたの思い出は本物か?』(化学同人、2014)、『ケースで学ぶ犯罪心理学』(北大路書房、2013)他