『談』no.111 「特集:意志と遺志の外にあるもの…中動態・ナッジ・錯覚」が3月1日(木)に発売になります。

強制はないが自発的でもなく、自発的ではないが同意している、そうした事態は十分に考えられる。というよりも、そうした事態は、日常にあふれている。それが見えなくなっているのは、強制か自発かという対立で、言い換えれば、能動か受動かという対立で物事を眺めているからである。じつは、かつてギリシアの世界には、能動態でも受動態でもないもう一つの態、中動態が存在したという。そして、興味深いことに能動/受動という対立ではなく、能動と中動の対立を用いれば、見えなくなっている今日の事態は、いともたやすく理解できてしまうというのである。

ところで、伝統的な経済学では能動/受動の関係をベースに、人間はホモ・エコノミクスであり、常に能動的・合理的に振る舞う主体なるものを想定していた。ただ現実には、そうした合理的主体であるはずの人間が、しばしば合理的ではない判断や決断を行なっていることも周知の事実だ。しかし、そうした不合理な選択を、穏やかに幸福な選択へと人為的に導く手法も考え出されている。その一つがナッジだ。ナッジは、非意志的な行為を緩やかに意志的行為へと誘導する。当事者にとっては非意志的な、他者にとっては意志的な、いわば限りなく意志的な非意志的行為の遂行なのだ。

この一見意志的に見える非意志的行為の遂行は、じつは心理学でも以前から指摘されていた。たとえば、感情プライミング効果と呼ばれテクニックを使えば、不快な気分を心地よい気分へ変えさせることができるのである。ある女性に対して好きという感情が芽生えた時、それは当人にとってはきわめて自然な気持ちに思えるものだ。ところが、その気持ちがじつは感情プライミング効果の結果である可能性が高いとしたら…。好きという感情自体が、非意志的なもの=錯覚によってつくり出されたものかもしれないということだろう。

する/されるの外、あるいは、意思/反意思の外、さらには、意識/無意識の外について、「中動態」をフックに、「ナッジ」、「錯覚」を手掛かりに考察する。

・〈する〉と〈させる〉の境界、あるいは人間的自由の問題
國分功一郎 高崎経済大学准教授
古くて新しい概念「中動態」が注目を集めている。それは、私たちの生き方の基底をなす考え方や思考を激しく揺さぶる力をもっているからだ。能動態/受動態の両面を持っているポテンシャルとしての中動態。中動態をフックに、人間の存立にダイレクトにかかわる意志の問題系を解きほぐす。

・確率としての自由…いかにして〈選択〉を設計するか
大屋雄裕 慶應義塾大学法学部教授
人々に可能な行為の範囲を狭めてしまうのではなく、選択肢の選びやすさにいわば人為的な傾斜を付けてやることによって確率的・集合的に人々の行為に一定の傾向を与える「ナッジ」という手法。それは、今よりちょっとだけ自由な環境をつくり出す以上のことを私たちにもたらしてくれるのだろうか。

・なぜ〈なんとなく〉好きになるのか?…脳をその気にさせる錯覚
竹内龍人 日本女子大学人間社会学部教授
うんと嫌いでもなく、さりとてうんと好きでもない。どちらかといえば好きかな、という感じ。じつはこの「なんとなく好き」という感情は脳の神経ネットワークが生み出した感情であり、人間のコミュニケーションにとってきわめて重要な働きをするものなのだ。意志的でありながらも非意志的ふるまいをする、いうならば意志と非意志がブレンドされたような感情。この「なんとなく」を手掛かりに、人間のこころのありようを探る。
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