毎年お知らせしていますが、今年も臨床哲学シンポジウムが開催されます。テーマは「臨床哲学とは何か」。今年は、本臨床哲学シンポジウムを精神医学から主導してきた木村敏氏と、哲学から臨床哲学を立ち上げてきた鷲田清一氏が発表を行い、そこに指定討論が加わるという特別企画です。

企画趣意(津田 均)
 私自身は精神科医であるがゆえに、木村敏氏の、おもに内因性精神病の臨床経験から、自己論、時間論を経て生命論的差異という独自の構想へ進んだ骨太な思想の流れは、身近なものとなっている。鷲田清一氏については、壮麗な整合的体系を作りあげるという哲学の通説を覆し、聴取の力と起結を持たないエッセイの力を表舞台に出す構想が、精神医学の経験を広く取り込み、その冪乗を精神医学にも送り返していることを読みとる。
 以下ごく手短に、未完成ながら私的な問題意識を述べたい。
 3つの透明性を考えてみる。他者の透明さ、自己の透明さ、そして精神疾患に付随する透明さである。3種類の透明さに触れることには、それぞれに含意がある。それはまずは、本来不透明なはずの他者も透明に与えられる面がありそうだが、何がそれを可能にしているのか、一方、自己には自己に不透明なところがありそうだが、それはいかに生じてくるのかという問である。そしてさらに、精神疾患には、われわれに、「何か」を、独特の仕方で透明に与えるところがあるのではないかという展望である。
 とりわけこの3つ目に挙げた透明さが、われわれにある道筋を辿らせるのではないか。それは、元来語り得ないように見える経験の深奥に達する語り、「0次からの語り」を紡ぎ出す道筋である。この道筋は多様であってよいが、強靭な思考により拓かれ、繋がっていなければならないであろう。ここで精神医学は、哲学的思考力を必要とする。同時に、とはいっても、この道筋の繋がりを作る思考が、その強靭さに自閉し、実践に体系的抑圧をかけてはならないであろう。そこで入れ替わりに現れてくるのが、哲学に発する臨床哲学が強調する関係の「独自性」ではないか。ただし、このことを治療場面で問題にするとき、けっして特権的治療局面のことだけが問題となるわけではないだろう。特別な転回点なく進んだ治療、マスに適用されて十分有効な治療を、次元の低いものと考える必然性はわれわれにはない。そうでなければ、精神医学の領域には、無数の凡庸な治療と、特権的だがある種のいかがわしさを払拭し得ないエピソードが残るということになりかねない。それでも、関係の独自性は常に治療の場にあり、柔軟にそこで働き続けているし、働き続けていなければならないと言ってよいのではないか。 多くの交錯を期待しつつ当日の議論を待ちたい。

日時 2012年12月16日(日)11:00〜18:00
会場 東京大学鉄門記念講堂
〒113-0033 東京都文京区本郷7-3-1 医学部教育研究棟4F

【プログラム】

木村 敏 (発表1) 11:00〜12:00
「臨床の哲学」
コメンテーターとの討論
木村敏vs野家啓一・鈴木國文・兼本浩祐・出口康夫  12:00〜13:00

(昼食 13:00〜14:00)
鷲田清一 (発表2)            14:00〜15:00
「哲学の臨床」
コメンテーターとの討論
木村敏vs野家啓一・鈴木國文・兼本浩祐・出口康夫  15:00〜16:00
(休憩 16:00〜16:15)
全体討論            16:15〜18:00

司会 谷徹、内海健

参加料 1000円 資料代含む 学生無料
事前の申し込みは不要です。
お問い合わせ シンポジウム本部事務局 tel:052-735-1706

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