「反復と持続」、結局のところ、僕がずっと追い求めてきたものは、そして、現在ただ今追究しているテーマも、うんと端折って言えば「反復と持続」なのです。書庫の奥にしまわれていた学生時代につくっていたミニコミ誌(そんな呼び方があったなんて若い人は知らないでしょう)。そいつをひっぱりだしてぺらぺらめくっていたら、「反復と模倣」というタイトルの小文を発見。なんのことわない、僕は同じテーマを、それこそ繰り返し(反復)、トレースし(模倣)、やり続け(持続)ているのでした。いや、もっと正確に言えば、それしかやっていないです。反復と持続というテーマを、持続的に反復し、その反復されたものをさらに模倣し反復させる。マニエリスティックかつ迷宮的思考、自分でいうのもなんですが、『談』の編集姿勢は、まさにこのマニエラ的態度にあるといっていいでしょう。東京都現代美術館で開催されている『MOTアニュアル2010:装飾』を観ました。季刊『嗜み』(文藝春秋発行)で、管啓次郎さんと五十嵐太郎さんに展評を頼んでおきながら、会期終了間際になってやっと観たなんていったら、いろいろ尽力していただいた主催者に怒られてしまいそうです。紙面を借りて「どうも失礼しました」。それはともかくとしても、展覧会自体はとてもすばらしいものでした。10人のアーティストが、このテーマの下、思う存分想像力を働かせ「装飾」の成り立つ領野を切開する。現代において「装飾」はいかなる意味をもつのか、アプローチも手法も全く異なるものの、それぞれの作品は、この問いへの回答として収斂していく、僕にはそう見えました。そして、何よりも僕を喜ばしたのは、その答えの一つが「反復と持続」であるように思えたからです。装飾をあたかも悪の化身と見なしたアドルフ・ロース。その呪縛に悩まされ続けたのは一人建築だけではありませんでした。構造とシステムから成り立つほとんど全ての表現行為に対して、それは枷となったのです。ポストモダニズムとは、その呪縛からの最初の突破口ではありました。装飾性をあえて反語的に打ち出すその戦略は、しかし、かえってモダニズムの正当性を逆に擁護することになる。モダニズムが嫌う装飾性とは、装飾という記号であり、オーナメントという構造でした。装飾性の内部にあるシステムの方は、生成そのものであり、構造とある場面では対立すらするものです。ポストモダンは、モダニズムに始めから包摂されていた思考だったのです。装飾性の枠から、記号性や構造を追い出し、システムにのみ定位すること。言い換えれば、反復し続け、模倣し続けること。自らを模倣し、その模倣(した自身)に再参入する。なんのことはない、これこそ僕がずっと考え続けている「反復と持続」のことなのです。山本基さんの塩による迷路、塩保朋子さんの切り絵がつくりだすレースのような世界、森淳一さんの空隙へ向かう彫刻、小川敦生さんの終りなき一筆書き……、いずれも「反復と持続」が描き出すシステムであり、モダニズムの内部にあだ花のように現出してしまった装飾性という魔物そのものなのです。 「MOTアニュアル2010:装飾」 いよいよ、今月11日△泙如最終日には、山本基さんの作品にちなんだこんなイベントもあります。↓ 「クロージングイベント:海に還る」