クルマで上野の都美館へ。フェルメール展。本日、「小路」「ワイングラスを持つ女」「リュートを調弦する女」「手紙を書く夫人と召使い」「ヴァージナルの前に座る若い女」「マルタとマリアの家のキリスト」「ディアナとニンフたち」の一挙7作品を鑑賞。これで、過去にルーブルで見た「天文学者」「レースを編む女」、アムステルダムで見た「牛乳を注ぐ女」「恋文」「青衣の女」、ハーグで見た「真珠の耳飾りの少女」「デルフト眺望」,大阪市立美術館で見た「地理学者」「天秤を持つ女」「聖プラクセデス」を加えて、17作品になった。

今回、フェルメールの同時代の作家の作品も出品されている。が、やはり、フェルメールは群を抜いていた。ヤン・ファン・デル・ヘイデンやカレル・ファブリティウス、ピーテル・デ・ホーホなどを順に見てきて、フェルメールの作品を見た途端に、これはぜんぜん違う世界にきたな、と思わせてしまう。格の違いを見せつけられる。

以前から、ずっといい続けていることだけれど、遠近法を駆使し、光学装置を使用し、幾何学的手法を自在に操るフェルメールは、デルフト派の他の作家と同じ水準にある。しかし、そうして構成された画布の内部に、理知的な世界とはまったく異質なものをフェルメールは持ち込むのである。オランダ絵画のもう一つの流れである風俗画の伝統にも忠実であるといういい方がされる。家族や人間関係が主題にされ、人の機微のようなものを表現することに腐心する。それが、理知的な、もっといえば数理的に構築された空間の中で一種独特のドラマトゥルギーを生み出すのである。いわば「幾何学の精神」と「感情の生理学」が相まって、空間を肉付けするのだ。情動化した数理空間、あるいは、幾何学化した感情。それらが、画布の中でミクロ的に組み合いながら、一つの表情をつくり出すのである。表情……、そう、ここに現出するのは、表情だ。世界という表情なのだ。