JTアートホール「アフィニス」へ。「たばこと塩の博物館30周年記念シンポジウム「四大嗜好品にみる嗜みの文化史」に参加する。

プログラムは、まず館長の大河喜彦さんの開会挨拶から。ここでいう嗜好品、コーヒー、茶、酒、たばこの定義付けから。次に、養老孟司さん、イ・ドンウクさんの記念講演。養老さんは、マイクをもって歩き回りながらの講演。あいかわらず語尾がよく聞き取れない。しかし、内容はとても面白かった。

大脳皮質と辺縁系の関係を図式化してみると、辺縁系自体はどの動物も余り変わらない、ということはどういうことになるかというと、大脳と辺縁系の割合が、脳の小さい動物では相対的に大きくなるのだ。たとえば、猫と人間では、辺縁系は、相対的に猫の方が大きくなる。だから、あれだけ情動的、感情的行動に出るというわけ。

また、y=axの公式を発案したとして、aは一種の重みづけ。aがおおきくなればy=出力(x=入力)は早くなる。つまり、好き/嫌いという重みづけがはっきりしているほど出力が早いというわけ。で、このaは、「現実」でもあるという。情動がいかに生き物にとって重要か、ということについての養老さんの仮説である。この説には、ちょっと興奮した。次の、イ・ドンウクさんのは韓国の四大嗜好品について。それらを一つづつ概観していく。もう少し焦点を絞った方がよかったのでは。

さて、第二部はシンポジウム。シンポジウムは出席者の顔ぶれでほぼ決まるといっていいが、今回はまさにベストといっていい人選。コーヒーの臼井隆一郎さん、お茶の角山榮さん、酒の神崎宣武さん、たばこの半田昌之さん、そして司会が高田公理さん。臼井さんから順番に、15分ほどのプレゼンテーション。臼井さん、初っぱなからコーヒーをコーヒーハウスと社会関係にからめて論じるので、いきなり話が難しくなってしまった。ぼくは、臼井さんのこの議論が公共性という問題の本質を炙り出すので、非常に面白いと思っているのだが、他のパネリストの関心と若干のズレがあり、実りのある議論へは発展しなかったのが惜しまれる。

角山さんは、コーヒーハウスが男性社会のものであったのに対して、お茶は家庭内のものであり、基本的に女性の文化であったことを報告。しかし、それが、近代社会の成立以降、女性の社会参加等で崩壊していく様子を論じる。角山さんの、ホーム・スウィート・ホームの文化論は、理想主義の典型。87歳という年齢にもかかわらず、机を叩きながら女性の応援歌を謳い上げる姿は、知識人のあるべき姿をみた思い。胸が熱くなった。

神崎さんは、宮司さんでもある。たとえば、新年の初めにいただくおとその習慣が急速に失われている。清酒は古来よりハレの場での飲み物であった。その意味をあらためて考えてみる必要があるのではないか。「百薬の長」といわれる酒は、他方、「きちがい水」とも言われる。この両極端の間に、儀礼、社交、嗜みなどのさまざまな酒の意味がある。そのことをかみしめてみようという。今、儀礼が残っているのは、あっちの世界だけ。もう一度、こっちの世界にも取り戻そうと提言する。同感だ。

半田さんは、「ものごと」という言葉に注目する。嗜好品は、まさに「ものごと」だ。ものとしての側面に関心をもつのが博物館(学)であるが、「こと」のもつ意味も忘れてはならない。嗜好品に対する評価も、「もの」と「こと」が重なり合った時、確かなものになるだろう。

そのあと、三村奈々恵さんのマリンバと天野清継さんのギターによるコンサート。三村さんは、ジャンルにこだわらず、クラシックから世界の音楽、ラテンミュージックまで演奏する。しかし、マリンバというのはなかなか難しい楽器だ。ニュアンスが表し難いように思うからだが、演奏はその微妙なニュアンスをみごとに伝えていた。

懇親会に参加させてもらった。臼井さん高田さんらと歓談。webマガジン「en」で「塩の博物誌」を連載されていたたばこと塩博物館の高梨浩樹さんと、久しぶりにゆっくりと話をした。嗜好品の世界は深い。それを突き詰めようとすれば、テーマや課題が次々に出てくる。やれることはまだまだいっぱいあるのだ。『談』の特集になりそうなヒントもたくさんもらいました。