NTT出版の柴さんから斎藤環さんの新刊『メディアは存在しない』を贈呈していただきました。
雑誌『Inter Communication』誌での同名の連載を中心に、同じく同誌で西垣通さんと交わされた議論、大澤真幸さん、東浩紀さんとの鼎談が収録されています。その連載、開始当初から話題になりましたが、『談』も注目し、no.71での北田暁大さんとの対談は、じつはこの連載がきっかけだったのです。
斎藤さんは、第1章冒頭で本書の目的についてこう書いています。「…私にとってのメディア論とは、つきつめれば、メディアの本質的な不在を論証するための議論を意味している。それは例えば、女性を論じて女性の不在に至るようなパラドキシカルな議論と相似形をなすだろう。そう、セキュシュアリティの根源性を謳いながら、女性の不在を宣告するラカニアンの身振りである。しかし、それははたして本質的な矛盾なのだろうか? そうではない。それはおそらく、存在論的な厳密さの問題なのだ。そう、本書は「メディア」を存在論的な根拠として用いることの不可能性、これを論証することをさしあたりの目標としている」。
「ユビキタス社会への「問い」ーーあとがきにかえて」では、「…メディアは存在しない。しかし、だからこそ、メディア論は終わらない。…かくして「ユビキタス」以降の新しいメディア論(それをもはや「メディア論2.0」などとは呼ぶまい)へ向けて、われわれは引き続き「精神分析」の橋頭堡に立てこもりつづけなければならない。足場を確保しなければ、自由になることすらできはしないのだから」。
メディア論はいかに〈不〉可能か。それは、同時に、精神分析はいかに〈不〉可能か、を問うことでもある。だとすれば、本書の立ち位置は、ラカニアン的身振りを二重化することで、よりいっそう精神分析の〈不〉可能を徹底化させようという、まさにラカニアンのそれにあたるだろう。「メディアは存在しない」という言明それ自体が、すでにメディア化した精神分析の内容証明となっていることのなんというパラドクス!  そう、ここで展開されるのは、またしても斎藤環的マジックなのだ。斎藤さんのクロースアップ・マジックには、タネも仕掛けもあるから面白い。

メディアは存在しない