サウンド・イメージ研究所ラボ・カフェ・ズミとのコラボレーション企画 『談』公開対談 「いかにして消尽したものになるか…死の贈与、生の贈与」を開催した。なにせ初めてのイベントなので、みなさん本当に聴きにきてくれるのか、内心ドキドキしていたが、開場してみると、応募者で欠席された方は一人だけ。立ち見でもいいからぜひ参加させて、といううれしい強引組をあわせると17人(既に定員オーバー)。それに、『談』の発行元のTASCの方々やスタッフが加わって、気が付けば、会場は立錐の余地もない。トイレに行くのもままならない感じ。さて、そんな中で公開対談は始まった。今回の特集を思いついた一つのきっかけが澤野雅樹先生の『不毛論』。時あたかも2001年、9.11の年に発行。何かリンクするものがあったのではないかという問い掛けから対談をスタートさせた。議論は、有用性/無用性の話からダメ連に。それを受けて赤木智弘さんの論文「気分は、戦争」をネタに、若者は、無用であることに絶えられなくなっている。自分の承認がモーターにならないと現状を分析。しばらくそのあたりの議論が続いたところで、ドゥルーズのベケット論『消尽したもの』に。そこから、器官なき身体、同一性、資本主義、スピノザからヘーゲルへ(?!)。澤野さんがルジャンドルを持ち出すと、じつは萱野さんも関心をもっておられて、宗教、ドグマ、国家というキーワードから、さらには暴力の問題へと議論は展開していった。たっぷり2時間の対談は、予想通り非常に内容の濃い、強度に満ち満ちたものになった。やはり、「ドゥルーズと子供たち」(スピノザ論的に)は、そもそも何かが根本的に違う、それがなんなのかはいまだにわからないのだが、少なくとも言語/論理の強烈な磁場を現出させる「力」は、今、この周辺からしか生まれないような気がする。それに立ち会えただけでもぼくはとてもうれしかった。 当日来て頂いたみなさん、ありがとうございました。