「国際シンポジウム Ubiquitous Media Asian Transformation」のプレイベントのお知らせです。
哲学者ベルナール・スティグレール氏、メディアアーティスト藤幡正樹氏とともに、東大駒場キャンパスで「<愛好者 amatorat>をめぐって」と題して、デジタル環境における「批評」の再構築に関するシンポジウムが行われます。
以下は石田英敬教授からのメールを転載。
「私たちの社会と文化から「クリティーク」が無惨に後退しているという実感を皆さんもお持ちではないでしょうか?
最近の朝日新聞の夕刊からの文化欄の消滅に示されたように、日刊紙から「論断時評」や「文芸時評」の場所が周縁化していき、かつては作品の質や価値や趣味を評論する場所であった、例えば「キネマ旬報」のような雑誌が「びあ」化し、良い写真とは何かを評する雑誌であった「朝日カメラ」のような写真誌がデジカメのスペック比較のマニュアル誌となり、「ニューヨークタイムズ」が「文芸批評の死」について特集を組み、などなど、私たちの社会のあらゆる領域から「批評」が後退していっています。もちろんこれは社会から「批判」が後退していくことと同じ現象であるともいえる。
このような批評の後退状況とメディア・テクノロジー環境の変化とは、私たちの見るところ緊密に結びついています。しかし、批評の後退は「美しき魂」たちが嘆くような抗いがたい宿命では決してなく、テクノロジー環境自体に発明的に働きかけることによって、批判と創造との関係を新たに生み出すことができるはずだというのが、ここでの私たちの問題提起です。
今回、
ポンピドゥーセンターIRI

で「キアロスタミ/エリセ」展プロジェクトを推進中のスティグレール氏と、そのポンピドゥーセンターでPocket fIlm Festival の招待作品提示をおこなったばかりで、北野武や黒沢清を擁する東京芸大の映像学科の研究科長でもある藤幡正樹氏をお招きして、デジタル環境・モバイル環境においていかに「批評空間」を構築するのか、デジタル時代における「クリティークとは何か」、再生されるべき「パブリックとは何か」をめぐって、「批評の道具」のデモを交えて討議することにしたのは、そのような狙いからです。タイトルの「アマトラ(amatorat)」とは、来るべき「批評/批判」の担い手としての「パブリック」のことです。
なおこの催しは、7月13日ー16日に東大本郷キャンパスで開催されます
国際シンポジウム Ubiquitous Media Asian Transformation

のプレイベントという性格ももっておりますので、そちらもよろしくお願いいたします」