『談』no.71「匿名性と野蛮」でインタビューさせていただいた酒井隆史さんに「en」最新号へのご寄稿をお願いしました。前号、金森修さんにお書きいただいたリレーエッセイ「コントロール」の第二弾です。酒井さんはここで注目すべき議論を展開しています。権力は表象を媒介しないで、情動機能に直接働きかける管理にパラダイムを変換したというのです。
「マスメディアも新たな機能をはっきりと示しました。(…)情動的次元を操作する、あるいはドゥルーズの用語を用いれば、情動的次元を「モジュレート」する能力によってダイレクトにコントロールを及ぼすことです。このことはマスメディア、とりわけテレビは、その情動へのダイレクトなコントロールの能力によって、あらためてその存在の意義を高めています。ワイドショーでは、分析や解説は極力排除されるか、あるいは、「コメンテーター」という名を与えられたタレントたちが、専門外のことについても、憶測や空想で、出された素材をさまざまに叩きます。どれほどそれが事実に反していても、あるいは、論証の欠落を示していても、そうしたことについての逡巡や配慮はますます乏しくなっているように思われます。情動的次元に働きかけうるかどうか、それのみがそこでは問われているかのようなのです」。
香山リカさんや仲正昌樹さんが近著で、テレビのメディア性についてあらためて注目し批判をしていますが、まさにそれはテレビが今や人間の情動……怒り、恐れ、悲しみ、など急激に生起する心的作用……をコントロールするような機能を持ち始めたことを危惧しているからでしょう。情動に働きかけられると人は有無をいわずに決定を下してしまう。ちょっと考えれば絶対におかしい、と思われることが平気でまかり通ってしまうのはなぜだろうか。小泉劇場とは、要するにこの「雷のような」決断を促す演出効果なのかもしれません。→「en」5月号