生理学が解剖学にとってかわる。それがクロード・ベルナールの衝撃によるものだったと書いた。ベルナールが『実験医学序説』を著わしたのは1865年。それから遡ること65年、1800年に解剖学者・生理学者ビシャが『生と死に関する生理学研究』において興味深い言葉を残していたことを知った。ビシャは次のように記していたという。〈生命〉は二つのものに分けられる。一つは、〈有機的生命(vie organique)〉と呼ばれるものであり、もう一つは〈動物的生命(vie animale)〉と呼ばれるものである。前者は、消化や血液循環など、いわば身体の内側で繰り広げられる生命活動であり、それゆえ「内的生命(vie interne)」とも呼ばれる。その中心的器官は「心臓」であり「肺」である。後者は、外界からさまざまな刺激を受容し、またこれらをもとに外界に働きかける生命であるがゆえに「外的生命(vie externe)」とも呼ばれる。その中心となるのは「脳」である(市野川容孝)。脳死臨調の際に「脳死をもって死とする」のがデカルト以来の西洋近代医学のシェーマとされたが、このビシャの説をとる限り、理解はまったく逆になる。人間における「死」の判定は、動物的生命である脳にではなく、有機的生命である心臓や肺の方にあるからだ。ここで一つの仮説を思いついた。生理学によって解剖学・形態学はなぜ敗北を宣言されたのか。それは、形態というものが生物の内から出てきたものではなく、あくまでも外部から与えられたものと解釈されたからではないか。生物の形は、生物に内在する遺伝情報によって決定するのではなく、外からやってくるものによって形成される。それはなんだかわからない。が、その決定因子が生物自身にはないことだけは確かだ。その意味では、表現系という言葉より表象系という方がふさわしい。そのことによって、生物学としては生理学と比較して常に二流に甘んじる結果になったのだ。しかし、だとしたら、ここでいう形態論は、環境決定論、さらには生態学のほんの手前まできているとはいえないか。解剖学・形態学を生態学として読み直すこと。なんとスリリングなアイデア、と勝手に思ってワクワクしているぼくでした。